元関脇・琴ヶ梅剛史(ことがうめ・つよし)は、昭和から平成初期の大相撲で活躍した佐渡ヶ嶽部屋出身の力士である。本名は北山聡。1963年10月5日、富山県婦負郡八尾町(現在の富山市)に生まれ、最高位は東関脇。低い重心を生かした力強い突き押しと、右四つからの寄りを持ち味として、幕内で存在感を示した。
特に注目されたのが、平成元年(1989年)の活躍だ。7月場所と9月場所で連続して10勝5敗を記録し、敢闘賞と技能賞を獲得。翌11月場所には大関昇進を懸けて土俵に上がった。しかし、糖尿病や膝の負傷、腰痛などが重なり、全盛期の相撲を維持することは難しくなっていく。十両優勝による幕内復帰も経験したが、1997年5月場所を最後に現役を退いた。
一方、私生活では現役時代から応援していた女性ファンとの結婚、引退相撲後の長男誕生という節目もあった。2026年現在は、東京・錦糸町のちゃんこ料理店「力士料理 琴ヶ梅」の経営者としても知られている。栄光の大関獲りから苦難の晩年、そして第二の人生まで、その歩みを振り返る。
【人物プロフィール】琴ヶ梅剛史の本名・出身・佐渡ヶ嶽部屋での経歴

琴ヶ梅剛史は、1963年10月5日生まれ。富山県婦負郡八尾町の出身で、現在の自治体区分では富山市にあたる。本名は北山聡で、佐渡ヶ嶽部屋に入門して大相撲の世界に進んだ。
15歳で初土俵、20代前半で幕内へ初土俵は1979年3月場所。15歳で角界に入り、当初は本名の北山を名乗った。同年5月場所から琴ヶ梅の四股名を使用している。
1984年3月場所には十両へ昇進。翌1985年3月場所には新入幕を果たした。さらに同年11月場所には小結、1986年9月場所には関脇へと番付を上げている。
若くして三役に定着した琴ヶ梅は、単に体格に恵まれた力士ではなかった。相手の懐に入る低い姿勢と、前に出る圧力を生かした相撲が特徴だった。
「花のサンパチ組」と呼ばれた世代琴ヶ梅は、1963年生まれの力士たちを指す「花のサンパチ組」の一人でもある。
同世代には、北勝海、小錦、双羽黒、寺尾、益荒雄ら、昭和末期から平成初期の大相撲を彩った力士がいた。体格や取り口の異なる実力者が同時代に集まったことで、当時の幕内は見応えのある対戦が続いた。
フジテレビの番組「大相撲いぶし銀列伝」でも琴ヶ梅が取り上げられ、同期の力士たちとともに角界を盛り上げた存在として紹介されている。
琴ヶ梅の基本プロフィール- 四股名:琴ヶ梅剛史
- 本名:北山聡
- 生年月日:1963年10月5日
- 出身地:富山県婦負郡八尾町(現・富山市)
- 所属部屋:佐渡ヶ嶽部屋
- 初土俵:1979年3月場所
- 新十両:1984年3月場所
- 新入幕:1985年3月場所
- 最高位:東関脇
- 得意技:右四つ、寄り、突き
- 生涯戦歴:691勝663敗37休(110場所)
なお、身長・体重については資料によって差がある。日本相撲協会の現行プロフィールでは181cm・183kgと記載されている。フジテレビの番組紹介では現役時代の体格を180cm・187kgとしている。
【現役時代の成績】東関脇まで昇進した琴ヶ梅の強さと受賞歴
琴ヶ梅の相撲を特徴づけたのは、低い重心と粘り強い足腰だった。体格を生かして立ち合いから前に出て、相手に十分な体勢を作らせない。右四つからの寄りだけでなく、突きや押しでも攻められる力士だった。
千代の富士を苦しめた低い重心琴ヶ梅を語るうえで外せないのが、横綱・千代の富士との対戦である。
千代の富士は圧倒的なスピードと筋力、相手を一気に崩す技術を持った横綱だった。琴ヶ梅は、そうした相手に対しても低い姿勢を崩さず、正面から圧力をかけることができた。
フジテレビの「大相撲いぶし銀列伝」では、全盛期の千代の富士を特に苦しめた力士として琴ヶ梅を紹介。寺尾や益荒雄に関係する番組出演者からも、琴ヶ梅の強さを高く評価する声があった。
力士の評価は優勝回数や最高位だけでは決まらない。横綱や大関が嫌がる相手だったかどうかも、当時の実力を知る手掛かりになる。琴ヶ梅は、その意味でも印象に残る関脇だった。
琴ヶ梅の通算成績と三賞- 通算勝利:691勝
- 通算敗北:663敗
- 通算休場:37休
- 幕内成績:369勝389敗22休
- 三役在位:18場所
- 関脇在位:12場所
- 小結在位:6場所
- 殊勲賞:1回
- 敢闘賞:4回
- 技能賞:2回
- 金星:2個
- 十両優勝:1回
- 三段目優勝:2回
三賞は合計7回。横綱や大関を破る殊勲、勝ち星を積み重ねる敢闘、相撲の技術を評価する技能の各分野で実績を残した。
琴ヶ梅の主な経歴と関係人物・転換点| 時期 | 出来事・成績 | 関係人物・意味 |
|---|---|---|
| 1979年3月 | 佐渡ヶ嶽部屋から初土俵 | 本名の北山で出発 |
| 1984年3月 | 新十両 | 関取への昇進を実現 |
| 1985年3月 | 新入幕 | 幕内力士として活躍を始める |
| 1986年9月 | 東関脇へ昇進 | 最高位に到達 |
| 1989年7月 | 10勝5敗・敢闘賞 | 二大関を撃破 |
| 1989年9月 | 10勝5敗・技能賞 | 一横綱・一大関を撃破 |
| 1989年11月 | 8勝7敗 | 大関昇進への挑戦が不成立 |
| 1992年5月 | 十両優勝・11勝4敗 | 幕内復帰への足掛かり |
| 1997年5月 | 西十両11枚目で2勝9敗 | 場所別記録上の最終場所 |
| 2007年11月 | 日本相撲協会を退職 | 親方としての活動を終える |
この経歴から分かるのは、琴ヶ梅が一時的に上位へ進出しただけの力士ではなかったということだ。関脇として複数場所にわたって番付を維持し、三賞を重ね、横綱・大関と互角に渡り合った実績がある。
【平成元年の大関獲り】連続10勝と惜しくも届かなかった昇進
琴ヶ梅の現役生活で、最も注目を集めた時期が1989年、平成元年である。
この年の名古屋場所と秋場所で、関脇の地位から2場所連続の10勝5敗を達成。上位陣を破る相撲も見せ、次の九州場所では大関昇進を目指すことになった。
1989年7月場所は二大関を撃破して敢闘賞7月場所の琴ヶ梅は10勝5敗。二人の大関を破る活躍で、敢闘賞を受賞した。
単に勝ち越しただけではなく、上位力士との対戦で結果を残した点が評価された。関脇という厳しい地位で二桁勝利を挙げたことは、大関候補としての存在感を強める結果となった。
9月場所は一横綱・一大関を破って技能賞続く9月場所も10勝5敗。今度は一人の横綱と一人の大関を破り、技能賞を受賞した。
2場所連続で10勝を挙げたことに加え、相手の地位にかかわらず自分の相撲を貫いたことが大きかった。7月場所の敢闘賞に続き、9月場所では技能賞。琴ヶ梅の実力が最も鮮明に表れた時期といえる。
11月場所は8勝7敗、大関昇進は実現せず期待を背負って迎えた11月場所は、8勝7敗に終わった。
大関昇進は実現せず、平成元年の挑戦はここで一区切りとなる。7月と9月の勢いを3場所目につなげられなかったことが、大きな転換点になった。
大関昇進には、直近の成績だけでなく、安定した力量や相撲内容も問われる。琴ヶ梅は関脇として6場所を維持する実力を持ちながら、最後の一場所で昇進への勢いを失った。
この大関獲りは、琴ヶ梅の評価を考えるうえで欠かせない。最高位は関脇だったものの、実際に大関昇進を期待されるだけの結果を残した力士だったからだ。
【引退理由】糖尿病・膝の負傷・腰痛で変化した成績
平成元年の大関獲りを境に、琴ヶ梅の成績は次第に変化していく。1990年代に入ると、全盛期のように前へ出る相撲を取り続けることが難しくなった。
糖尿病と膝・腰の故障が重なる琴ヶ梅の晩年については、糖尿病、膝の負傷、腰痛が重なったことが伝記的な記述で紹介されている。
特に大きかったのは、稽古量を十分に確保しにくくなったことだ。琴ヶ梅の相撲は、低い重心から相手に圧力をかけ、休まず前進することが持ち味だった。膝や腰に問題を抱えれば、その土台となる動作そのものが難しくなる。
糖尿病については飲酒習慣と関連づけて説明されることもあるが、病気の経過や医学的な因果関係を細部まで示す公的な記録は限られている。少なくとも、競技生活の後半に健康上の問題が重なっていたことは、成績の変化を考えるうえで重要である。
はたきに落ちる相撲が増えた晩年かつての琴ヶ梅は、相手からはたかれても簡単には崩れない足腰を持っていた。しかし、1990年代に入ると、立ち合いから前に出る圧力が弱まり、相手の引き技に対応しきれない場面が増えていった。
これは単なる勝敗の問題ではない。自分の得意な形を作れなくなり、相手に主導権を渡す相撲が増えたという変化だった。
幕内で安定した成績を残せなくなり、ついには十両へ陥落。関脇として大関を狙った力士が、下位の番付で再起を目指す立場になった。
引退理由は一つの敗戦ではなく、積み重なった身体的負担琴ヶ梅の引退を考える際には、1997年5月場所の成績だけに注目するのでは不十分だ。
糖尿病、膝の負傷、腰痛によって稽古や実戦で必要な動きを維持できなくなり、幕内から十両へと番付を下げていった。現役時代の最大の武器だった前進力を取り戻せなかったことが、引退につながる大きな背景だった。
全盛期を知るファンにとっては、関脇時代の迫力ある相撲と晩年の姿の落差が印象に残ったはずだ。しかし、長い現役生活のなかで身体の問題と向き合いながら土俵に立ち続けたことも、琴ヶ梅のキャリアの一部である。
【結婚・家族】琴ヶ梅を支えた女性ファンと長男の誕生
琴ヶ梅の私生活で知られているエピソードの一つが、現役時代から応援を続けていた女性ファンとの結婚である。
成績が低迷しても応援を続けた女性との結婚琴ヶ梅は幕内から十両へ陥落した後、再起を目指していた時期に、全盛期から変わらず支えてくれた一人の女性ファンと結婚した。
力士として華やかな活躍をしている時期だけでなく、故障や成績低迷に直面した時期にも応援を続けた女性だったと紹介されている。
結婚相手の詳細なプロフィールや結婚年月日については、広く確認できる情報が限られている。そのため、相手の氏名や年齢、職業などを推測で補うことはできない。
ただし、琴ヶ梅が厳しい現役生活の後半に家庭を築き、再起を目指していたことは、競技成績だけでは見えない人生の転換点として注目される。
引退相撲の翌月に長男が誕生琴ヶ梅は長らく子宝に恵まれなかったが、引退相撲の翌月に長男が誕生したと伝えられている。
引退相撲に関する記事には、身重の夫人が支度部屋で琴ヶ梅のネクタイを締め直している写真も掲載された。土俵を去る力士の節目に、夫人が寄り添う姿を捉えたものだ。
現役時代の大関獲りや十両への陥落といった競技面の出来事とは別に、家族にとっても大きな節目だったことがうかがえる。
長男の現在の年齢や職業、家族の詳しい近況については、本人や家族による公表情報が限られている。琴ヶ梅の経歴を紹介する際には、確認できる範囲で家族のエピソードを捉えることが大切だ。
【十両優勝から1997年引退へ】琴ヶ梅の最後の土俵
琴ヶ梅は幕内から陥落した後も、現役を諦めずに再起を図った。その象徴となるのが、1992年5月場所の十両優勝である。
1992年5月場所、11勝4敗で十両優勝十両に落ちた琴ヶ梅は、1992年5月場所に11勝4敗を記録して優勝した。
幕内で活躍した力士が十両に陥落した後、再び優勝して上位復帰を目指すことは簡単ではない。琴ヶ梅はこの場所で結果を残し、一度は幕内へ復帰することに成功した。
この優勝は、琴ヶ梅のキャリアにおける重要な実績である。大関昇進という目標には届かなかったものの、十両でもう一度優勝できる力を残していたことを示している。
幕内復帰後も長続きせず、再び十両へしかし、幕内復帰は長続きしなかった。健康面や故障の問題を抱えたまま、全盛期のような相撲を続けることは難しかった。
再び十両へ陥落し、現役生活の終盤を迎える。かつて横綱や大関を相手に二桁勝利を挙げた力士にとって、厳しい状況だったことは想像に難くない。
1997年5月場所が最後の場所とされる相撲専門の記録資料では、琴ヶ梅の最終場所は1997年5月場所。最後の番付は西十両11枚目で、同場所の成績は2勝9敗とされている。33歳での引退だった。
ここで注意したいのが、引退場所の記載に資料間の食い違いがある点だ。日本相撲協会の現行プロフィールには「平成十一年一月場所」と記載されている一方、場所別の戦歴をまとめた相撲専門資料では「平成九年五月場所」となっている。
1979年3月の初土俵から1997年5月までの110場所という現役在位数、1997年5月場所の西十両11枚目という番付記録は、後者の記述と整合する。したがって、現役最後の場所を整理する際には1997年5月場所を基準とし、日本相撲協会のプロフィールに異なる記載があることも併せて理解しておきたい。
琴ヶ梅は大関にも幕内優勝にも届かなかったが、関脇としての実績、三賞7回、金星2個、十両優勝という記録を残した。引退までの18年余りは、決して短いものではなかった。
【琴ヶ梅の現在】錦糸町のちゃんこ料理店「力士料理 琴ヶ梅」を経営
2026年現在、琴ヶ梅は現役時代の四股名を冠したちゃんこ料理店「力士料理 琴ヶ梅」の経営者として知られている。
引退後は親方として後進を指導現役引退後は年寄・錣山を襲名し、後に大鳴戸へと名跡を変更した。佐渡ヶ嶽部屋の部屋付き親方として後進の指導に携わり、2007年11月場所の千秋楽を最後に日本相撲協会を退職した。
フジテレビの「大相撲いぶし銀列伝」では、引退後の親方としての活動と、ちゃんこ店経営者としての現在が紹介されている。
錦糸町の「力士料理 琴ヶ梅」が現在の活動拠点現在の活動を象徴するのが、東京都墨田区錦糸にある「力士料理 琴ヶ梅」だ。
同店では、佐渡ヶ嶽部屋に伝わるちゃんこ料理を中心に、さまざまな力士料理を提供している。看板料理として知られるのが、塩仕立ての「水晶鍋」。相撲部屋の伝統を感じられる料理として紹介されている。
食べログの店舗関係者による掲載情報でも、元関脇・琴ヶ梅が営む店として紹介され、本人が接客することも案内されている。
2025年・2026年にもテレビで紹介琴ヶ梅の店は、引退後の活動を知るうえでも注目されている。
2025年12月3日放送のテレビ東京「よじごじDays」では、元関脇・琴ヶ梅のちゃんこ店が紹介された。佐渡ヶ嶽部屋伝統の塩ちゃんこ鍋「水晶鍋」や、みそ仕立てのもつ鍋などが取り上げられている。
さらに2026年1月20日放送の日本テレビ系「ヒルナンデス」でも、錦糸町の「力士料理 琴ヶ梅」が紹介された。イタリアンちゃんこ鍋など、伝統的なちゃんこ料理に加えた新しいメニューも話題になっている。
大相撲の現役時代に培った経験を、料理という形で現在につなげている点は興味深い。琴ヶ梅の名前は、関脇としての戦績だけでなく、相撲部屋の食文化を伝える店の名前としても受け継がれている。
なお、店舗の営業日や営業時間、予約状況は変更される場合があるため、来店を考える際は最新の店舗情報を確認したい。
【琴ヶ梅の評価】大関になれなかった関脇が残したもの
琴ヶ梅を評価するとき、最高位が関脇だったことだけを取り上げるのは適切ではない。
1989年には関脇で連続10勝を挙げ、二大関や横綱・大関を破る実力を示した。三賞7回、金星2個という記録も残している。全盛期には横綱を苦しめるほどの相撲を見せ、同時代の力士からも高く評価された。
一方、糖尿病や膝・腰の故障によって稽古が不足し、得意の前進相撲を維持できなくなった。大関昇進に失敗した後、健康上の問題と成績低下が重なり、最後は十両で現役を終えた。
その後、親方として後進を指導し、相撲協会退職後はちゃんこ料理店を経営。2026年現在も、現役時代の四股名を冠した店を通じて相撲文化と関わり続けている。
大関昇進という目標には届かなかったものの、琴ヶ梅は昭和末期から平成初期の相撲史に確かな足跡を残した力士である。
【琴ヶ梅に関するよくある質問(FAQ)】
Q1:琴ヶ梅の本名は何ですか?
A1:本名は北山聡です。1963年10月5日、富山県婦負郡八尾町(現在の富山市)に生まれ、佐渡ヶ嶽部屋から1979年3月場所に初土俵を踏みました。
Q2:琴ヶ梅の最高位は何ですか?
A2:最高位は東関脇です。1986年9月場所に関脇へ昇進し、三役通算18場所を務めました。
Q3:琴ヶ梅は大関に昇進できましたか?
A3:大関昇進は実現していません。1989年7月と9月に連続10勝を記録しましたが、11月場所は8勝7敗に終わり、大関昇進には届きませんでした。
Q4:琴ヶ梅は結婚していますか?
A4:現役時代から応援していた女性ファンと結婚したと伝えられています。引退相撲の翌月には長男が誕生しています。
Q5:琴ヶ梅の引退はいつですか?
A5:相撲専門の場所別記録では、1997年5月場所が最後の場所とされています。最後の番付は西十両11枚目でした。ただし、日本相撲協会の現行プロフィールには1999年1月場所との異なる記載があります。
Q6:琴ヶ梅は2026年現在、何をしていますか?
A6:東京都墨田区錦糸町のちゃんこ料理店「力士料理 琴ヶ梅」を経営しています。2025年12月のテレビ東京の番組や2026年1月の「ヒルナンデス」でも店が紹介されています。
Q7:琴ヶ梅は十両優勝をしていますか?
A7:はい。1992年5月場所に11勝4敗を記録し、十両優勝を果たしています。この優勝によって一度は幕内に復帰しました。
琴ヶ梅剛史は、佐渡ヶ嶽部屋で15歳から相撲を取り、東関脇まで昇進した実力派力士だった。本名は北山聡。低い重心からの突き押しと右四つの寄りを武器に、昭和末期から平成初期の土俵で存在感を示した。
1989年には7月・9月場所で連続10勝を挙げ、敢闘賞と技能賞を獲得。大関昇進への期待が高まったものの、11月場所の8勝7敗でその夢は実現しなかった。
その後は糖尿病や膝の負傷、腰痛などが重なり、得意の前進相撲を維持できなくなった。十両に陥落してからも1992年5月場所の優勝で幕内復帰を果たしたが、最終的には1997年5月場所を最後に現役を退いたとする記録が残っている。
結婚や長男の誕生という家族の節目を経て、引退後は親方として後進を指導。その後、相撲協会を退職し、現在はちゃんこ料理店の経営者として活動している。
【プロの結論】
琴ヶ梅の本当の価値は、大関に昇進できなかったという結果だけでは測れない。横綱や大関を相手に勝ち星を挙げ、関脇で二桁勝利を続けた実力、故障や病気と向き合いながら土俵に立ち続けた姿、そして引退後も相撲文化を伝える仕事を続けていることにある。
大相撲の歴史を振り返る際には、優勝力士や横綱だけでなく、上位陣を脅かした関脇の存在にも目を向けたい。琴ヶ梅剛史は、まさにその価値を教えてくれる力士の一人である。
主な確認資料: 日本相撲協会の力士プロフィール、フジテレビ「大相撲いぶし銀列伝」、大相撲の場所別成績資料、店舗掲載情報、2025~2026年のテレビ紹介情報。