徳川慶喜の顔を実際に確認できる写真は現存しています。後世に描かれた肖像画だけでなく、幕末に本人を撮影した写真が博物館などに収蔵されている点が大きな特徴です。
特に注目したいのが、1867年3月に英国人サットン大佐が撮影した徳川慶喜の肖像写真です。
1867年3月27日撮影の肖像写真公益財団法人徳川ミュージアムの収蔵品データベースには「徳川慶喜公肖像写真」という資料が登録されています。
この写真の撮影に関わったのは、英国軍艦サーペント号の機関長だったサットン大佐です。
同館の解説によると、慶喜は慶応3年(1867年)3月、兵庫開港について英仏米蘭の公使に伝え、27日には英国公使ハリー・パークスらと会見。その後、サットン大佐によって撮影されました。
さらに翌日には、英国公使館付歩兵護衛隊を閲兵する慶喜の姿も撮影されています。
写真の特徴は次のとおりです。
- 撮影時期:1867年3月
- 撮影者:サットン大佐
- 撮影場所:大阪
- 技法:鶏卵紙印画
- 仕上げ:岩絵具による彩色
- 所蔵:公益財団法人徳川ミュージアム
特に重要なのは、写真の裏面に撮影者や撮影地を示す書き込みが残されていることです。
また、この写真に関連する慶喜の姿は、英国の新聞『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』でも紹介されました。
つまり、単に後世に徳川慶喜と説明された画像ではなく、撮影時期や撮影者、歴史的な状況を収蔵記録からたどれる資料なのです。
東京都写真美術館にも慶喜の写真が収蔵されている東京都写真美術館の収蔵品検索にも、徳川慶喜の肖像写真が登録されています。
その一つは、制作年が1868~1877年とされる作品です。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 作品名 | 徳川慶喜像 |
| 所蔵館 | 東京都写真美術館 |
| 制作年 | 1868~1877年 |
| 撮影者 | 不詳 |
| 技法 | 鶏卵紙 |
| 資料番号 | 10107450 |
この資料は撮影者が特定されていません。制作年にも幅があるため、1868年撮影と断定することはできません。
ただし、幕府が終わった直後から明治初期にかけての慶喜の姿を伝える写真資料として価値があります。
1902年頃に撮影された晩年の肖像写真若い頃の写真だけでなく、晩年の慶喜を伝える肖像写真も確認できます。
徳川ミュージアム所蔵の「徳川慶喜公肖像写真」には、1902年(明治35年)頃という制作年が記録されています。
この頃の慶喜はすでに将軍職を退いており、明治時代の生活を送っていました。
1867年の将軍時代の写真と比較すると、撮影時期の違いを通じて、幕末の政治指導者から明治の元将軍へと移り変わった人生を考える手掛かりになります。
なお、この写真は1913年の薨去直前に撮影されたものではありません。約11年前の写真です。
【若い頃・晩年】徳川慶喜の顔画像を撮影時期別に比較

徳川慶喜の写真を探すとき、重要なのが撮影年代の違いです。
同じ人物でも、幕末の政治活動期、静岡での隠居生活、東京での晩年では、写真が記録する時代背景が異なります。
① 若い頃:1867年の将軍時代1867年3月の写真は、慶喜が第15代将軍に就任した直後のものです。
この時点で慶喜は満29歳。江戸幕府の政治的な命運を背負い、外国公使との外交にも対応していました。
写真が撮影された背景には、開港問題や外国との外交関係があります。
そのため、この時期の肖像は単なる記念写真ではなく、幕府の代表者として外国人と向き合う慶喜の姿を記録したものでもあります。
② 明治21年:徳川家達と並んだ写真静岡市歴史博物館には、明治21年(1888年)に撮影された「徳川慶喜・家達写真」が所蔵されています。
この写真には、慶喜と徳川家達が並んで写っています。
撮影の背景は、家達が静岡を訪れたことでした。写真は旧幕臣たちにも配られたとされています。
ここで重要なのが、徳川家達という人物の存在です。
家達は、慶喜の後に徳川宗家を継いだ人物であり、明治時代の徳川家を代表する存在でした。
その2人が一緒に写っていることから、この写真は単なる人物写真を超え、幕府消滅後の徳川家の関係を伝える資料としても興味深いものです。
③ 明治35年頃:東京時代の肖像1902年頃の写真は、慶喜が東京で生活していた時期のものです。
1867年の写真と比較する際には、撮影時の年齢だけでなく、政治的立場の変化にも注目したいところです。
将軍時代の写真は外交や公的な立場と関係していますが、晩年の肖像は、すでに明治政府のもとで公爵となった元将軍の姿を伝えています。
写真の年代を見分けるための比較ポイント| 撮影時期 | 写真の種類 | 注目するポイント |
|---|---|---|
| 1867年 | 将軍時代の肖像 | サットン大佐、外交、幕末 |
| 1868~1877年 | 明治初期の肖像 | 撮影者不詳の資料も存在 |
| 1888年 | 慶喜・家達の集合写真 | 徳川宗家との関係 |
| 1902年頃 | 晩年の肖像 | 公爵時代の慶喜 |
注意したいのは、写真の見た目だけで撮影年を判断しないことです。古写真には複写や彩色が施されたものもあり、画像の掲載時期と実際の撮影時期が一致するとは限りません。
【1837年~1913年】徳川慶喜の生涯と経歴を年表で整理
徳川慶喜の写真を正しく理解するには、本人がどの時期に何をしていたのかを押さえる必要があります。
慶喜は1837年に水戸徳川家に生まれ、11歳で一橋家を継ぎ、幕府政治の中心へ進みました。
しかし、将軍としての在職期間は長くありません。1867年に将軍となり、同年に大政奉還を決断。翌1868年には鳥羽・伏見の戦いを経て謹慎生活に入ります。
徳川慶喜の生涯・写真・関係人物の年表年表の基礎資料は、国立国会図書館「近代日本人の肖像」、松戸市戸定歴史館の徳川慶喜・昭武関係年表、国立国会図書館の「史料にみる日本の近代」などです。旧暦と西暦が異なる日付については、西暦表記を基準に整理しています。
徳川斉昭の七男として誕生徳川慶喜は天保8年(1837年)9月29日、現在の東京都文京区にあたる江戸の水戸藩上屋敷で生まれました。
父は水戸藩第9代藩主の徳川斉昭です。
斉昭は水戸藩の藩政改革を進めた人物であり、尊王思想を重視したことでも知られています。
慶喜はその七男として生まれ、幼名を松平七郎麻呂と名付けられました。
幼少期には水戸で養育され、藩校・弘道館などで学問や武術を身につけています。
一橋家を継ぎ、将軍候補へ1847年、11歳の慶喜は一橋家の養子となり、その家督を継ぎました。
一橋家は御三卿の一つであり、将軍家の後継者を輩出する重要な家柄です。
そのため、慶喜は早くから将軍候補として注目されることになります。
第13代将軍徳川家定の後継者をめぐっては、井伊直弼らが推す徳川慶福との間で政治的な対立が起こりました。
最終的に慶福が第14代将軍・徳川家茂となり、慶喜は安政の大獄に関連して謹慎処分を受けます。
1867年、大政奉還を決断1866年に第14代将軍・徳川家茂が亡くなると、慶喜は徳川宗家を継承し、翌1867年1月に第15代将軍となりました。
しかし、当時の幕府は深刻な政治的危機に直面していました。
薩摩藩や長州藩などの倒幕勢力が力を強め、幕府だけで全国を統治する体制は限界を迎えていたのです。
慶喜が選択したのが、1867年の大政奉還でした。
慶応3年10月14日(西暦1867年11月9日)、慶喜は朝廷に政権を返上する上表を提出します。
これは、江戸幕府による長期政権の終わりを決定づける出来事でした。
ただし、大政奉還は徳川家の政治的影響力を直ちに消滅させるものではありませんでした。慶喜には新しい政治体制の中で徳川家の地位を保とうとする考えもありました。
【鳥羽・伏見の戦いから江戸城開城へ】1868年の慶喜に何が起きたのか
大政奉還によって政権を朝廷に返した慶喜でしたが、政治的な主導権をめぐる対立は続きました。
1867年12月には王政復古の大号令が出され、旧幕府勢力は新政府の政治体制から排除されます。
その後、旧幕府軍と新政府軍の緊張は武力衝突へと発展しました。
鳥羽・伏見の戦いで敗北1868年1月、京都周辺で旧幕府軍と新政府軍が衝突します。
これが鳥羽・伏見の戦いです。
旧幕府軍は敗北し、慶喜は大阪城を離れて海路で江戸へ戻りました。
松戸市戸定歴史館の年表にも、慶喜が敗報を受けて大阪城を脱出した経緯が記録されています。
上野寛永寺で謹慎生活へ江戸に戻った慶喜は、恭順の意思を示すため、上野寛永寺に移って謹慎します。
ここから慶喜の人生は大きく変わりました。
それまで政治の中心にいた人物が、将軍としての権力を失い、政治の表舞台から退くことになったのです。
勝海舟と西郷隆盛による江戸城開城交渉江戸を戦場にしないために重要な役割を果たしたのが、旧幕臣の勝海舟と新政府軍の西郷隆盛でした。
1868年3月13日・14日(旧暦)の両日、両者は江戸開城に向けた交渉を行います。
この交渉では、江戸城の明け渡しや慶喜の水戸謹慎などが取り決められました。
同年4月11日(旧暦)、慶喜は上野を出発して水戸へ移り、江戸城は新政府軍に引き渡されました。
この一連の出来事は江戸城無血開城として知られています。
国立国会図書館に残る勝海舟の日記にも、西郷との会談についての記録があります。
慶喜自身が戦い続ける道を選ばず、恭順の姿勢を示したことと、勝海舟らによる交渉が、江戸の大規模な戦闘を回避するうえで重要でした。
【意外な一面】徳川慶喜は自分でも写真を撮っていた!静岡時代の趣味人としての顔
徳川慶喜の写真を語るうえで、見落とせない事実があります。
それは、慶喜が写真に撮られるだけの人物ではなかったことです。
実は明治時代の慶喜は、自分でカメラを操作し、風景や人物を撮影することに熱中していました。
静岡で写真技術を学ぶ1868年7月、慶喜は駿府(現在の静岡市)の宝台院に移りました。
1869年9月に謹慎が解かれた後も静岡で生活を続け、1897年に東京へ移るまで長い時間を過ごします。
この静岡時代に慶喜が親しんだ趣味の一つが写真でした。
静岡県立中央図書館の資料によると、静岡で最初の写真館を開いたのは旧幕臣の徳田孝吉です。
徳田は1876年(明治9年)、七間町に徳田写真館を開き、慶喜にも写真技術を教えました。
2人は一緒に撮影に出かけることも多かったとされています。
慶喜が撮影した写真には何が写っている?静岡市美術館が紹介した写真資料には、慶喜自身が撮影した作品が含まれています。
代表的なものは次のとおりです。
- 安倍川鉄橋上り列車進行中之図:近代化が進む静岡の交通風景を記録した写真。
- 東京博覧会第一会場:明治時代の博覧会の様子を撮影した作品。
- 松戸町角町:松戸周辺の街並みを伝える写真。
これらは慶喜の顔を写した肖像写真ではなく、慶喜本人が撮影者となった作品です。
この違いは、検索で徳川慶喜の写真を探す際にも重要です。
「徳川慶喜の写真」という言葉には、本人が写っている写真と、本人が撮影した写真の2つの意味があるからです。
カメラにもこだわった慶喜慶喜が使っていたカメラについても、歴史資料が残されています。
静岡市歴史博物館の収蔵資料には、1905年頃に制作されたプレモカメラが紹介されています。原資料は久能山東照宮所蔵です。
また、静岡市美術館の展覧会資料では、慶喜が使用したステレオカメラも紹介されました。
写真を撮るだけでなく、機材や表現方法にも関心を持っていたことがうかがえます。
政治家から写真愛好家へ変わった意味慶喜の写真への情熱には、歴史的な面白さがあります。
将軍時代の慶喜は、外国公使との会見や政治的な立場を背景に、撮影される側にいました。
一方、明治時代には自らカメラを持ち、周囲の風景や人々を撮影する側になっています。
この変化は、単なる趣味の変化ではありません。
幕府の最高権力者という立場を離れた後も、写真という新しい技術に関心を持ち、自分の視点で時代を記録していたのです。
慶喜の撮影写真は、幕末の政治史だけでなく、明治時代の暮らしや風景を知るための資料としても価値があります。
【写真の真偽を見極める】徳川慶喜の画像を探すときの5つの判断基準
インターネット上では、徳川慶喜の肖像写真としてさまざまな画像が紹介されています。
ただし、古写真には原本、複写、写真をもとにした版画、後世の肖像画などが混在しています。
本物の写真を探す場合は、次の5点を確認すると判断しやすくなります。
1. 所蔵館が明記されているか最初に確認したいのは、どの博物館・美術館が所蔵しているかです。
特に参考になるのは次の機関です。
- 国立国会図書館「近代日本人の肖像」
- 公益財団法人徳川ミュージアム
- 東京都写真美術館
- 静岡市歴史博物館
- 江戸東京博物館
- 松戸市戸定歴史館
所蔵機関が明確な資料は、歴史的な裏付けを調べやすくなります。
2. 撮影年月が記録されているか1867年のサットン大佐撮影の写真は、撮影時期を特定できる代表例です。
一方、東京都写真美術館の1868~1877年という記録のように、制作年代に幅があるものも存在します。
撮影年が不明な写真を、特定の歴史的事件の直前・直後と断定しないことが大切です。
3. 撮影者が分かっているか撮影者が分かる写真は、資料としての背景を調べやすくなります。
サットン大佐や徳田孝吉のように、撮影に関係した人物が明らかな資料は、慶喜の活動時期と写真を結び付ける手掛かりになります。
4. 写真と肖像画を区別する検索結果には、実際の写真だけでなく肖像画も表示されます。
特に歴史人物の場合、写真をもとに描かれた絵画や後世のイラストが、写真と同じように紹介されることがあります。
写真なのか、絵画なのか、写真を複写したものなのかを確認してください。
5. 撮影時期と掲載時期を混同しない古写真がインターネットに掲載された時期は、当然ながら撮影時期とは異なります。
また、原本が後年に複写された場合もあります。
例えば、東京都写真美術館の資料では、作品の制作年代と材質・技法が記録されています。
こうした情報を確認すれば、写真の歴史的な位置付けをより正確に理解できます。
【プロの結論】徳川慶喜の写真は歴史を読み解く一次資料として見るべき
徳川慶喜の写真を調べる際、最も大切なのは、単に顔を確認するだけで終わらせないことです。
写真には、撮影された時代、撮影者、被写体となった理由、所蔵の経緯など、多くの情報が含まれています。
特に注目したいのは、次の3つの視点です。
第一に、1867年の写真は幕末外交の記録であること。
サットン大佐が撮影した慶喜の姿は、江戸幕府が外国との外交を続けていた時代を象徴しています。
第二に、1888年の慶喜・家達写真は徳川家の歴史を伝えること。
将軍職を退いた慶喜と徳川宗家を継いだ家達が一緒に写っている点は、明治時代の徳川家を考えるうえで興味深い資料です。
第三に、明治時代の慶喜は写真を撮る側でもあったこと。
自らカメラを持ち、静岡や東京の風景を記録した慶喜は、近代日本の写真文化とも関わりを持つ人物でした。
そのため、幕末の人物の容貌を知りたい人だけでなく、日本の写真史や明治時代の生活文化に興味がある人にも、慶喜の写真資料はおすすめできます。
一方、写真の見た目だけで撮影年代や人物の歴史的な立場を判断したい人には、博物館の収蔵記録と併せて確認する方法が適しています。
【徳川慶喜の写真】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:徳川慶喜の本物の写真は現存していますか?
現存しています。公益財団法人徳川ミュージアムには、1867年にサットン大佐が撮影した徳川慶喜公の肖像写真が収蔵されています。東京都写真美術館にも幕末から明治初期の肖像写真が登録されています。
Q2:徳川慶喜の若い頃の写真は何歳頃に撮影されましたか?
代表的なものは1867年3月の写真です。当時の慶喜は満29歳で、第15代将軍に就任した直後でした。
Q3:徳川慶喜の晩年の写真はいつ撮影されましたか?
徳川ミュージアム所蔵の肖像写真には、1902年(明治35年)頃という制作年が記録されています。1913年11月22日の薨去より約11年前の写真です。
Q4:徳川慶喜は自分でも写真を撮っていたのですか?
はい。明治時代には写真を趣味とし、静岡の写真師・徳田孝吉と交流しながら撮影技術を身につけました。静岡や東京の風景など、自身が撮影した写真も残っています。
Q5:徳川慶喜は何歳で亡くなりましたか?
1913年11月22日に亡くなりました。満年齢では76歳、当時の数え年では77歳です。
Q6:徳川慶喜はなぜ最後の将軍と呼ばれるのですか?
1867年に江戸幕府第15代将軍となり、同年に大政奉還を行ったためです。その後、王政復古や戊辰戦争を経て幕府が終焉を迎え、慶喜が歴史上最後の征夷大将軍となりました。
徳川慶喜の写真には、江戸幕府最後の将軍としての姿だけでなく、明治時代を生きた一人の人物としての姿も残されています。
今回紹介した要点を振り返ります。
- 1837年:水戸藩主・徳川斉昭の七男として誕生。
- 1847年:一橋家を相続。
- 1867年:第15代将軍となり、大政奉還を実施。
- 1867年3月:サットン大佐による肖像写真が撮影される。
- 1868年:鳥羽・伏見の戦いで敗北し、謹慎生活へ。
- 1869年以降:静岡で生活し、写真撮影などの趣味に親しむ。
- 1888年:徳川家達との写真が撮影される。
- 1902年頃:晩年の肖像写真が残される。
- 1913年11月22日:76歳で薨去。
慶喜の写真を探すなら、まず1867年のサットン大佐撮影の肖像写真を確認し、その後、1888年の徳川家達との写真や1902年頃の肖像を見比べると、人生の変化を理解しやすくなります。
歴史上の最後の将軍という肩書だけでは見えてこない、写真を愛し、自ら時代の風景を記録した徳川慶喜。その多面的な人物像こそ、現存する写真資料から読み取れる大きな魅力です。