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徳川慶喜は何代目の将軍?第15代の就任時期や大政奉還、幕府終焉までを徹底解説

高峰 弦 高峰 弦 • 更新: • 公開: • 読了約 17 分
目次

徳川慶喜(とくがわよしのぶ)は、江戸幕府の第15代将軍であり、徳川将軍家最後の征夷大将軍です。将軍に就任したのは慶応2年(1866年)。第13代将軍・徳川家定、第14代将軍・徳川家茂に続いて幕府の最高権力者となりました。

しかし、慶喜が将軍として政治を担った期間は1年に満たず、その間に大政奉還、王政復古の大号令、戊辰戦争という歴史を大きく変える出来事が相次ぎます。大政奉還によって政権を朝廷に返上したものの、将軍職の辞任が認められるまでには時間差がありました。

この記事では、徳川慶喜が何代目の将軍なのかという基本的な疑問から、徳川家定・徳川家茂との関係、将軍に選ばれた理由、江戸幕府が終焉を迎えるまでの流れを時系列で整理します。

【結論】徳川慶喜は江戸幕府第15代将軍!最後の征夷大将軍として歴史に名を残す

徳川慶喜何代目

徳川慶喜は、徳川家康から数えて15代目の江戸幕府将軍です。

江戸幕府は1603年に徳川家康が開いた政権で、その後、約260年にわたって15人の将軍が政治を担いました。慶喜はその最後を務めた人物です。

慶喜の基本的なプロフィールは次のとおりです。

項目 内容
名前 徳川慶喜
読み方 とくがわよしのぶ
生年月日 1837年10月28日
没年月日 1913年11月22日
父 徳川斉昭(水戸藩主)
出身 水戸徳川家
養家 一橋徳川家
将軍の代数 第15代
将軍就任 慶応2年12月5日
最後の征夷大将軍 徳川慶喜

国立国会図書館の電子展示「近代日本人の肖像」でも、慶喜は江戸幕府第15代将軍として紹介されています。

ここで注意したいのが、将軍就任日の西暦表記です。

歴史資料では慶応2年12月5日と記されていますが、当時は旧暦を使用していました。現在の新暦に換算すると、1867年1月10日に当たります。

そのため、歴史上の区分では「1866年に第15代将軍に就任」と説明される一方、実際の西暦日付は1867年1月です。

徳川将軍家の歴代一覧!慶喜は最後の15代目

徳川将軍家の歴代将軍を初代から並べると、次のようになります。

1. 初代:徳川家康
2. 2代:徳川秀忠
3. 3代:徳川家光
4. 4代:徳川家綱
5. 5代:徳川綱吉
6. 6代:徳川家宣
7. 7代:徳川家継
8. 8代:徳川吉宗
9. 9代:徳川家重
10. 10代:徳川家治
11. 11代:徳川家斉
12. 12代:徳川家慶
13. 13代:徳川家定
14. 14代:徳川家茂
15. 15代:徳川慶喜

この一覧からも分かるように、慶喜の直前には家定と家茂が将軍を務めていました。

なお、徳川将軍家は必ずしも父から子へ将軍職が引き継がれたわけではありません。御三家や御三卿などの分家から後継者を迎えることもありました。

実際、8代吉宗は紀伊徳川家、11代家斉は一橋徳川家、14代家茂は紀伊徳川家、そして15代慶喜は一橋徳川家の出身です。

東京都江戸東京博物館の企画展「徳川一門―将軍家をささえたひとびと―」でも、将軍家の存続を支えた御三家・御三卿の役割が紹介されています。

【家定・家茂との関係】徳川慶喜はなぜ15代将軍になったのか

慶喜が将軍になった理由を理解するには、13代徳川家定から14代徳川家茂へと続く将軍継嗣問題を知る必要があります。

幕末の徳川家では、将軍の後継者をめぐって大きな政治的対立が起きていました。

13代将軍・徳川家定の後継者問題

徳川家定は1853年に第13代将軍に就任しました。

しかし、病弱で実子がいなかったことから、次の将軍を誰にするかが大きな政治問題になります。

このとき、後継候補として有力視されたのが一橋家を継いでいた徳川慶喜でした。

慶喜を推したのは、徳川斉昭や島津斉彬、松平慶永らを中心とする一橋派です。慶喜の政治的能力や幕政改革への期待が背景にありました。

一方、紀州藩主の徳川慶福(のちの徳川家茂)を推したのが南紀派です。

南紀派の中心には大老・井伊直弼らがおり、最終的にこちらの勢力が勝利しました。

その結果、1858年に徳川家茂が第14代将軍に就任します。

慶喜は将軍の座を逃し、安政の大獄では謹慎処分を受けることになりました。

14代将軍・徳川家茂の死去で状況が変わる

家茂が将軍だった時代も、幕府を取り巻く環境は厳しいものでした。

開国をめぐる外交問題、尊王攘夷運動、長州藩との対立など、幕府は国内外の問題への対応を迫られていました。

1866年、家茂は第二次長州征討の最中に大坂城で病没します。

当時、慶喜は将軍後見職や禁裏御守衛総督などを務め、幕府政治に深く関わっていました。

家茂の死後、慶喜は徳川宗家を相続します。そして、同年12月5日に朝廷から将軍宣下を受け、第15代将軍となりました。

ただし、慶喜は家定や家茂の実子ではありません。水戸藩主・徳川斉昭の子として生まれ、一橋家を継いだ人物です。

つまり、徳川家の血筋と一橋家という有力な家柄、そして幕末の政治経験が、将軍就任につながったのです。

【年表で整理】徳川慶喜の将軍就任から大政奉還まで

慶喜の将軍在任期間は、江戸幕府の歴史の中でも特に短いものでした。

将軍になった時点ですでに幕府の政治的基盤は揺らいでおり、外交や国内統治の課題も山積していました。

主要な出来事を整理すると、次のようになります。

時期 出来事 歴史的な意味
1837年 徳川慶喜誕生 水戸藩主・徳川斉昭の子として生まれる
1847年 一橋家を相続 将軍後継候補となる基盤を築く
1853年 徳川家定が13代将軍に就任 将軍継嗣問題が浮上
1858年 徳川家茂が14代将軍に就任 慶喜は将軍候補から外れる
1862年 将軍後見職に就任 幕政改革に関与
1866年8月 徳川宗家を相続 将軍家の当主となる
1866年12月5日 第15代将軍に就任 将軍宣下を受ける
1867年11月9日 大政奉還を上表 政権を朝廷へ返上
1867年11月19日 将軍職の辞表を提出 将軍職からの退任を申し出る
1868年1月3日 王政復古の大号令 将軍辞職が認められ、幕府が廃止される
1868年1月27日 鳥羽・伏見の戦い 戊辰戦争が始まる

※旧暦と新暦の日付を併記しています。将軍宣下などの和暦の日付は旧暦です。

この年表で特に重要なのは、将軍就任から大政奉還までの期間です。

慶喜が将軍宣下を受けたのは1867年1月10日。大政奉還の上表を提出したのは同年11月9日です。

つまり、将軍として政権を担った期間は、わずか10か月ほどで大きな転換点を迎えました。

しかも、大政奉還を行った後も、慶喜はすぐに将軍職を失ったわけではありません。

この時間差が、幕末政治を理解するうえで要点です。

【大政奉還の真相】徳川慶喜はなぜ政権を朝廷に返したのか

1867年、慶喜は江戸幕府の政治体制を大きく変える決断を下します。

それが大政奉還です。

大政奉還とは、将軍が朝廷から委任されていた政権を返上することです。

大政奉還は1867年10月14日に上表された

慶応3年10月14日、慶喜は朝廷に対して大政奉還の上表を提出しました。

新暦では1867年11月9日に当たります。

この決断の背景には、薩摩藩・長州藩を中心とする倒幕勢力の台頭や、幕府の政治的な求心力の低下がありました。

また、外国との外交関係が急速に重要性を増していたことも関係しています。

土佐藩の前藩主・山内容堂は政権返上を建議しており、後藤象二郎らも大政奉還に向けた動きを進めていました。

慶喜にとって大政奉還は、単純に徳川家の権力を放棄するだけの決断ではありませんでした。

政権を朝廷に返したうえで、新しい政治体制の中でも徳川家が重要な役割を担う余地を残そうとする意図があったと考えられています。

国立国会図書館の近代史年表でも、慶応3年10月14日の大政奉還上表が記録されています。

大政奉還した日と将軍を辞めた日は違う

ここは特に誤解されやすい部分です。

大政奉還を行ったからといって、その日に慶喜が将軍を辞めたわけではありません。

慶喜は10月24日(新暦1867年11月19日)に将軍職の辞表を提出しましたが、すぐには受理されませんでした。

京都市が公開する佛教大学歴史学部の青山忠正教授による解説でも、大政奉還と将軍辞職は別の出来事として説明されています。

つまり、慶喜は政権を朝廷に返した後も、将軍職にとどまっていたのです。

この違いを整理すると、次のようになります。

- 大政奉還: 将軍が担っていた政権を朝廷に返上すること。
- 将軍職辞職: 征夷大将軍という地位を退くこと。
- 王政復古: 幕府などの旧来の政治制度を廃止し、新政府の成立を宣言すること。

この3つを区別すると、1867年から1868年にかけての政治の流れが理解しやすくなります。

【王政復古と戊辰戦争】徳川慶喜が最後の将軍と呼ばれる理由

大政奉還後も、徳川家と新政府側の政治的対立は続きました。

その決定的な転換点となったのが、王政復古の大号令です。

1868年1月3日、王政復古の大号令で幕府が廃止される

慶応3年12月9日(新暦1868年1月3日)、朝廷は王政復古の大号令を発しました。

この大号令によって、幕府や摂政・関白など従来の政治制度が廃止され、総裁・議定・参与という新しい役職が設けられました。

徳川慶喜の将軍職辞職も、この政変の中で認められています。

国立公文書館の公開資料には、王政復古の大号令に関する詔勅や、徳川慶喜の将軍職辞退を認めた行政文書が残されています。

これによって、徳川幕府は政治制度として終焉を迎えました。

鳥羽・伏見の戦いから戊辰戦争へ

しかし、幕府の廃止だけで国内の対立が解消されたわけではありません。

旧幕府側には、新政府の政治方針や徳川家に対する処遇に不満を持つ勢力が残っていました。

1868年1月27日(慶応4年1月3日)、京都南部の鳥羽・伏見で新政府軍と旧幕府軍が衝突します。

これが鳥羽・伏見の戦いであり、戊辰戦争の始まりです。

旧幕府軍は新政府軍に敗れ、慶喜は大坂城を離れて江戸へ向かいました。

その後、慶喜は恭順の姿勢を示し、謹慎生活に入ります。

戊辰戦争は鳥羽・伏見の戦いだけで終わらず、上野戦争、北越戦争、会津戦争など各地に広がりました。

最終的には1869年の箱館戦争の終結によって、旧幕府勢力による組織的な抵抗は終わります。

徳川家そのものがなくなったわけではない

もう一つ押さえておきたいのが、江戸幕府の終焉と徳川家の存続は別の問題だという点です。

幕府が廃止された後も、徳川家の家名と血筋は受け継がれました。

江戸東京博物館の展示解説によれば、徳川宗家の第16代当主となったのは、田安亀之助、のちの徳川家達です。

つまり、慶喜が最後の将軍だったからといって、徳川家の歴史まで終わったわけではありません。

最後の将軍とは、徳川家最後の当主という意味ではなく、江戸幕府の征夷大将軍を務めた最後の人物という意味です。

【プロの結論】徳川慶喜の歴史的評価は「幕府を終わらせた将軍」という視点で考える

徳川慶喜を理解するうえで大切なのは、単に江戸幕府を終わらせた人物として捉えないことです。

慶喜は、幕府の政治的な権威が弱まり、外国との外交や国内の政治対立が深刻化する時代に将軍となりました。

そのため、彼の判断には幕府の存続、徳川家の保全、新しい政治体制への対応という複数の課題が絡んでいました。

慶喜は幕府を守ろうとしたのか、それとも終わらせようとしたのか

慶喜の大政奉還には、徳川家の政治的な影響力を新しい体制の中に残そうとする側面がありました。

一方で、旧来の幕府制度をそのまま維持することが難しくなっていたのも事実です。

その意味で、大政奉還は単なる敗北宣言ではなく、政治的な主導権をめぐる選択でもありました。

ただし、その後の王政復古によって徳川家は新政府の中心から排除され、戊辰戦争では旧幕府勢力が敗北します。

結果的に、慶喜が期待した徳川家の政治的復権は実現しませんでした。

歴史を理解するときに押さえたい3つの判断基準

徳川慶喜について学ぶ際には、次の3点を区別すると理解が深まります。

1. 将軍の代数と徳川家の当主の代数を混同しない。 慶喜は第15代将軍であり、徳川宗家の第16代当主ではありません。
2. 大政奉還と将軍辞職を同一視しない。 政権返上と将軍職辞職には別々の日付があります。
3. 江戸幕府の終焉と戊辰戦争の終結を混同しない。 幕府の政治制度が廃止された後も、旧幕府勢力との戦闘は続きました。

この3つを理解すれば、幕末から明治維新への移行を、より正確な歴史の流れとして捉えられます。

【徳川慶喜は何代目?】に関するよくある質問(FAQ)

Q1:徳川慶喜は江戸幕府の何代目の将軍ですか?

A1:徳川慶喜は江戸幕府第15代将軍です。徳川家康を初代として続いた15人の将軍のうち、最後に征夷大将軍を務めました。

Q2:徳川慶喜が将軍になったのは何年ですか?

A2:慶応2年(1866年)12月5日に将軍宣下を受けました。この日付は旧暦で、新暦では1867年1月10日に当たります。

Q3:徳川慶喜の前の将軍は誰ですか?

A3:第14代将軍の徳川家茂です。その前は第13代将軍の徳川家定でした。家茂の死去後、慶喜が徳川宗家を継ぎ、第15代将軍に就任しました。

Q4:徳川慶喜の将軍在任期間はどれくらいですか?

A4:将軍宣下は1867年1月10日、将軍職辞職が認められたのは1868年1月3日です。実際の在任期間は1年に満たず、約1年間でした。

Q5:徳川慶喜は大政奉還をした日に将軍を辞めたのですか?

A5:いいえ。大政奉還の上表は1867年11月9日(旧暦10月14日)ですが、将軍職の辞職が認められたのは1868年1月3日(旧暦慶応3年12月9日)です。

Q6:徳川慶喜が最後の将軍と呼ばれるのはなぜですか?

A6:王政復古の大号令によって江戸幕府の政治制度が廃止され、慶喜の将軍職辞職が認められたためです。その後、江戸幕府から新たな将軍が任命されることはありませんでした。

Q7:徳川慶喜の後に徳川家を継いだ人物は誰ですか?

A7:徳川宗家の第16代当主となったのは徳川家達です。ただし、家達は江戸幕府の将軍ではありません。慶喜が最後の将軍であることに変わりはありません。

徳川慶喜は、江戸幕府第15代将軍として幕末の激動期を担った人物です。

1866年(慶応2年)に将軍に就任し、翌年には大政奉還によって政権を朝廷に返上しました。その後、王政復古の大号令によって将軍職を退き、江戸幕府は歴史に幕を下ろします。

ただし、大政奉還と将軍辞職は別の出来事であり、幕府の政治制度が終わった後も戊辰戦争は続きました。

徳川慶喜をめぐる歴史を理解するうえでは、次の3点が重要です。

- 将軍の代数: 第15代。
- 将軍としての位置づけ: 江戸幕府最後の征夷大将軍。
- 歴史的な役割: 大政奉還を行い、江戸幕府から明治新政府への政治体制の転換期を担った人物。

徳川慶喜の生涯は、260年以上続いた徳川将軍家の政治がどのように終わり、日本が近代国家へと移行していったのかを考えるうえで、欠かせない歴史の一章です。

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