元千葉ロッテマリーンズの投手、伊藤義弘さん。2010年の日本シリーズ第7戦で胴上げ投手となり、ロッテの「史上最大の下克上」と呼ばれる日本一を支えた右腕です。東福岡高校から國學院大學、JR東海を経てプロ入りし、4年連続50試合以上に登板するなど、救援投手としてチームに欠かせない存在でした。
しかし、右肘をはじめとする故障に苦しみ、2016年に現役を引退。その後は教員免許を取得し、母校・東福岡高校の保健体育教諭や硬式野球部監督として後進を育てました。2025年9月にはスローイング強化アカデミー「Pitch+」を開講しましたが、同年10月6日、福岡市内で発生したバイク事故により43歳で亡くなりました。2026年現在、改めて注目されているのは、選手としての実績だけでなく、教育者として歩んだ第二の人生です。
【プロフィール】伊藤義弘さんとは?生年月日・出身地と野球人生の原点

伊藤義弘さんは、福岡県出身の元プロ野球投手です。右投右打の本格派リリーバーとして千葉ロッテマリーンズで活躍し、特に2010年の日本シリーズでの働きによって多くの野球ファンに名前を知られるようになりました。
基本プロフィール- 氏名:伊藤義弘(いとう・よしひろ)
- 生年月日:1982年6月2日
- 出身地:福岡県
- 没年月日:2025年10月6日
- 享年:43歳
- 身長:177cm
- 体重:78kg
- 投打:右投右打
- ポジション:投手
- 出身高校:東福岡高校
- 出身大学:國學院大學
- 社会人野球:JR東海
- プロ所属:千葉ロッテマリーンズ
- ドラフト:2007年大学生・社会人ドラフト4巡目
これらの基本情報は、日本野球機構(NPB)の個人年度別成績や國學院大學硬式野球部のOB紹介、各社の訃報報道でも確認できます。
東福岡高校で甲子園を経験伊藤さんの野球人生の出発点となったのが、福岡県の強豪・東福岡高校です。
高校2年生だった1999年夏、伊藤さんは東福岡高校の一員として全国高校野球選手権大会、いわゆる夏の甲子園に出場しました。
高校時代に全国大会を経験したことは、その後の大学野球、社会人野球、そしてプロ野球へと進むうえで大きな財産になったと考えられます。
また、東福岡高校は後年、伊藤さんが教員として戻り、野球部監督を務めることになる場所でもあります。選手として出発した母校が、引退後の人生において再び重要な舞台となりました。
國學院大學からJR東海へ進んだ社会人時代高校卒業後は國學院大學に進学し、硬式野球部で競技を続けました。
その後、社会人野球のJR東海に進みます。プロ入り前には2007年の都市対抗野球大会に王子製紙の補強選手として出場し、チームのベスト8進出に貢献しました。
大学野球だけでなく、社会人野球という高い競争環境でも経験を積んだことが、プロでの安定した救援登板につながっていきます。
そして2007年の大学生・社会人ドラフトで、千葉ロッテマリーンズから4巡目指名を受けました。
【ロッテ時代】通算257試合の実績と2010年日本シリーズ胴上げ投手の功績
伊藤義弘さんのプロ野球人生を語るうえで欠かせないのが、千葉ロッテマリーンズでの救援投手としての活躍です。
2008年にプロ入りすると、ルーキーイヤーから51試合に登板。翌2009年は56試合、2010年は65試合、2011年も50試合に登板しました。
プロ1年目から4年連続で50試合以上に登板したという数字は、チームが伊藤さんを救援陣の重要な戦力として起用していたことを示しています。
2010年は65試合登板、30ホールドを記録伊藤さんが特に輝いたのが2010年シーズンです。
レギュラーシーズンでは65試合に登板し、30ホールド、防御率3.48を記録しました。150キロを超えるストレートとスライダーを武器に、試合の流れをつなぐリリーフとして活躍しました。
この年のロッテはレギュラーシーズン3位からクライマックスシリーズを勝ち抜き、日本シリーズへ進出。中日ドラゴンズとの激戦を制して日本一に輝きました。
2010年11月7日、日本シリーズ第7戦の胴上げ投手伊藤さんの名前を野球ファンの記憶に刻んだのが、2010年11月7日の日本シリーズ第7戦です。
中日との最終戦は延長12回までもつれる激闘となりました。伊藤さんは11回からマウンドに上がり、2イニングを無安打無失点に抑える好投を披露します。
最後の打者を外角のスライダーで遊ゴロに打ち取り、ロッテの日本一が決定。伊藤さんは2回、打者6人、被安打0、無失点という完璧な投球で胴上げ投手となりました。
試合の途中から登板し、最後までマウンドを守り抜いた姿は、チームの日本一を象徴する場面の一つです。
本人も2016年の引退時、プロ生活で印象に残った出来事として、日本シリーズでの胴上げ投手と手術明けの初勝利を挙げています。
また、この試合ではプロ初打席で中日の浅尾拓也投手の速球をバントで送り、岡田幸文選手の決勝打につながる攻撃にも貢献しました。投球だけでなく、打席での仕事も記憶されています。
伊藤義弘さんのロッテ時代の通算成績日本野球機構の個人年度別成績によると、伊藤さんのプロ通算成績は次のとおりです。
- 通算登板:257試合
- 通算勝利:6勝
- 通算敗戦:13敗
- 通算セーブ:1セーブ
- 通算ホールド:71ホールド
- 通算投球回:272回1/3
- 通算奪三振:249
- 通算防御率:3.83
勝利数やセーブ数だけを見ると、派手な数字ではない可能性があります。しかし、救援投手の価値は勝利数だけで決まるものではありません。接戦での登板、連投、リードを守るための中継ぎなど、チームの勝利を支える仕事が評価の中心になります。
257試合の登板と71ホールドは、伊藤さんがロッテの救援陣で果たした役割を客観的に示す数字です。
【経歴年表】右肘手術・故障・巨人入団テストから2016年の引退まで
2010年の日本一を経験した伊藤さんですが、その後は故障との戦いが続きました。
特に2011年の左足の負傷は、その後の投球フォームや身体のバランスにも影響したと本人が振り返っています。右肘の手術や長期リハビリを経て、プロ野球選手としてのキャリアに区切りをつけることになりました。
伊藤義弘さんの主な経歴と転換点| 時期 | 出来事・所属 | 主な実績・背景 |
|---|---|---|
| 1982年6月2日 | 福岡県で誕生 | 右投右打の野球選手として成長 |
| 1999年夏 | 東福岡高校 | 高校2年生で夏の甲子園に出場 |
| 大学時代 | 國學院大學 | 大学野球で競技経験を積む |
| 社会人時代 | JR東海 | 2007年都市対抗で王子製紙の補強選手としてベスト8 |
| 2007年 | ロッテからドラフト4巡目指名 | 大学生・社会人ドラフトでプロ入り |
| 2008〜2011年 | 千葉ロッテ | 4年連続50試合以上に登板 |
| 2010年11月7日 | 日本シリーズ第7戦 | 中日戦で2回無失点、胴上げ投手に |
| 2011年9月 | 左足を負傷 | 試合中に折れたバットが左すねに直撃 |
| 2013年9月 | 右肘の手術 | 右肘関節鏡視下手術を受ける |
| 2014年8月 | 一軍復帰 | 手術後の復帰登板で勝利投手に |
| 2015年オフ | 右肘骨棘除去術 | 再び右肘の治療と長期リハビリ |
| 2016年 | ロッテ戦力外・巨人入団テスト | テスト不合格後に現役引退を決断 |
| 2017年度 | 日本体育大学大学院 | 体育学の修士号と教員免許の取得を目指す |
| 2020年4月 | 東福岡高校 | 保健体育教諭として母校に赴任 |
| 2020年夏〜2025年夏 | 東福岡高校野球部 | 硬式野球部監督として指導 |
| 2025年9月 | Pitch+ | スローイング強化アカデミーを開講 |
| 2025年10月6日 | 福岡市内で交通事故 | バイク事故により43歳で死去 |
2011年9月1日、日本ハム戦で伊藤さんを突然のアクシデントが襲いました。
7回の登板中、打者・陽岱鋼選手が打った際に折れたバットが左すね付近を直撃。伊藤さんはマウンド上に倒れ込み、負傷退場しました。
病院での検査では骨に異常はなかったものの、左下腿三頭筋の打撲と挫傷と診断されました。当時、伊藤さんはチーム最多タイの48試合に登板していた中継ぎの主力でした。
その後、2012年には肩や腰、2013年には肩と肘にも故障が生じ、思うように投げられない時期が続きます。
2016年のパ・リーグインサイトのインタビューでは、伊藤さん自身が左足の負傷を振り返り、身体のバランスが崩れて他の箇所にも故障が広がったという趣旨の説明をしています。
投手にとって下半身は、投球時の体重移動やフォームの安定性を支える重要な部分です。一度バランスを崩すと、肩や肘など別の部位にも負担がかかる可能性があります。
右肘手術と長期リハビリ伊藤さんは2013年9月に右肘関節鏡視下手術を受けました。
2014年8月には一軍に復帰し、8月6日の楽天戦で手術後の初勝利を記録しています。この勝利は、本人にとっても忘れられない出来事でした。
しかし、その後も故障は続き、2015年オフには右肘の骨棘除去術を受けています。骨棘とは骨の一部に形成される突起で、関節の動きや周囲の組織に影響することがあります。
2016年の取材記事では、右手の薬指と小指のしびれなどの症状についても紹介されています。右肘の治療には全治約6カ月を要するとされ、復帰への道のりは容易ではありませんでした。
なお、2013年の手術と2015年オフの骨棘除去術は、報道上それぞれ異なる時期の治療として紹介されています。故障の経過を考えるうえでは、複数年にわたる治療とリハビリが続いていた点が重要です。
巨人の入団テストを受けるも不合格、引退を決断2016年、ロッテから戦力外通告を受けた伊藤さんは、現役続行を目指して12球団合同トライアウトに参加しました。
その後、読売ジャイアンツの秋季キャンプに参加する機会を得て、入団テストにも挑戦しています。しかし、結果は不合格でした。
日刊スポーツの2016年11月20日の報道によると、伊藤さんは11月19日に現役引退を表明。プロ入りから9年間のキャリアに幕を下ろしました。
注目したいのは、巨人のテストに不合格となったことだけが引退の背景ではない点です。長年の故障、リハビリ、戦力外通告を経験し、現役選手としての可能性を見極めたうえで、次の人生を選択しました。
引退後の進路については、早い段階から中学・高校の教員を目指す考えを示していました。プロで得た経験を次の世代に伝えたいという思いが、第二の人生につながっていきます。
【引退後の現在】教師・東福岡高校野球部監督として歩んだ第二の人生
伊藤義弘さんの引退後を知るうえで、忘れてはならないのが教育者としての活動です。
プロ野球を引退した選手の進路は、野球解説者、球団スタッフ、コーチ、一般企業への就職などさまざまです。そのなかで伊藤さんが選んだのは、教員免許を取得して学校教育の現場に立つ道でした。
日本体育大学大学院で体育学を学ぶ2017年度から日本体育大学大学院に進学し、体育学を学びました。
大学院での研究や学習を通じて修士号を取得し、教員免許も取得。プロ野球での経験を生かすだけでなく、教育者として必要な専門知識を身につけるための準備を進めました。
2016年の引退時に教職を目指す意向を示していたことからも、これは単なる引退後の仕事探しではなく、本人が以前から考えていた目標だったことが分かります。
当時の取材では、野球の栄光だけでなく、けがや苦しい時期の経験も子どもたちに伝えたいという思いを語っていました。
2020年4月、母校・東福岡高校の保健体育教諭に2020年4月1日付で、伊藤さんは母校の東福岡高校に保健体育教諭として赴任しました。
高校時代に甲子園を目指した場所へ、今度は先生として戻ってきたのです。
選手としての成功と挫折、社会人野球とプロ野球で経験した厳しさ、故障からの復帰を目指したリハビリ。こうした経験は、野球の技術指導だけではなく、生徒たちの進路や将来を考えるうえでも貴重な材料になったはずです。
伊藤さんは、選手一人ひとりと向き合う教育を大切にしていました。
2016年の引退後の取材でも、教師として目指す姿について次のような言葉を残しています。
「生徒一人一人と会話できる教師になりたい」
プロの世界で結果を求められ続けた経験を、今度は生徒の成長を支えるために生かそうとしていたことが伝わる言葉です。
東福岡高校硬式野球部の監督として指導2020年夏からは東福岡高校硬式野球部の監督を務めました。
高校野球の指導では、技術面だけでなく、選手の体力づくりやチーム内の意思疎通、試合での判断力など、幅広い能力が大切です。
伊藤監督は、プロで培った投球技術や試合経験を伝えるだけではなく、選手同士で話し合いながらチームをつくる姿勢を大切にしていました。
2022年には東福岡高校野球部を率いて、秋季大会でセンバツ出場を目指すチームづくりに取り組んでいたこともスポーツ紙で報じられています。
監督としての活動は2025年夏まで続きました。
2025年9月に開講したスローイング強化アカデミー「Pitch+」東福岡高校での監督活動を終えた伊藤さんは、2025年9月、新たな取り組みとしてスローイング強化アカデミー「Pitch+(ピッチプラス)」を開講しました。
投げる動作の改善やスローイング技術の向上を目指す活動で、野球を続ける子どもたちや、投球・送球に課題を抱える選手を対象にした取り組みでした。
2025年10月のスポニチ報道では、伊藤さんが9月17日にSNSで受講生を募集していたことも紹介されています。
その募集では、もっと上達したい選手やスローイングが苦手な選手に向けた呼びかけを行っていました。
プロ野球選手から高校教師、野球部監督、そして専門的な指導活動へ。Pitch+は、伊藤さんが培ってきた技術や経験を、より広い世代に伝えていこうとした新しい挑戦でした。
開講から間もない2025年10月6日に事故で亡くなったため、本人によるその後の指導活動は実現しませんでした。2026年現在、アカデミーの運営がどのような形で継続されているかについては、広く確認できる公表情報は限られています。
【2025年10月6日】伊藤義弘さんの死去とバイク事故の経緯・原因
2025年10月6日、元ロッテの伊藤義弘さんが福岡市内で発生したバイク事故により亡くなりました。43歳でした。
2010年の日本シリーズ胴上げ投手として活躍し、引退後は教育者として新たな人生を歩み始めていた人物の突然の訃報は、野球界に大きな衝撃を与えました。
事故が起きた場所と時間報道各社によると、事故が発生したのは2025年10月6日午後2時17分ごろ。場所は福岡市城南区鳥飼の交差点です。
伊藤さんが運転していたバイクとタクシーが衝突し、伊藤さんは福岡市内の病院へ搬送されました。
しかし、治療を受けたものの、同日午後4時16分に死亡が確認されました。
事故に関する初期報道では、タクシーには乗客がおらず、運転していた75歳の男性も負傷したものの、命に別条はなかったとされています。
信号のある交差点で発生した衝突事故福岡県警城南警察署の発表を伝えた報道によると、現場は信号機の設置された交差点でした。
バイクとタクシーが交差する形で衝突したとされ、事故直後の報道では、警察が信号の状況など事故原因を詳しく調べていると伝えられています。
一部の初期報道では、どちらかが信号を無視した可能性についても言及されました。ただし、これは当時の捜査上の見方であり、どちらの車両に過失があったかを確定する情報ではありません。
福岡県警が公表した交通死亡事故の注意喚起資料でも、事故現場は福岡市城南区鳥飼5丁目付近の信号交差点とされています。
事故原因や信号の表示状況については、初期報道の内容と最終的な責任判断を混同しないことが大切です。
死因は何だったのか?伊藤さんの死因について、報道ではバイクとタクシーの衝突事故による死亡とされています。
具体的な医学上の死亡診断名や負傷部位の詳細については、広く公表された情報は確認できません。
そのため、特定の外傷や内臓損傷などを死因として断定することはできません。公表されている事実は、交通事故で負傷して病院に搬送され、事故当日の午後4時16分に亡くなったという経緯です。
ロッテ球団も公式に訃報を発表2025年10月7日、千葉ロッテマリーンズは球団公式サイトで、OBである伊藤さんの訃報を発表しました。
球団は、伊藤さんが入団1年目から50試合以上に登板したこと、2010年の日本シリーズで胴上げ投手となったことを紹介し、故人を追悼しました。
現役引退から約9年が経過していたにもかかわらず、球団が公式に功績を取り上げたことは、伊藤さんがマリーンズの歴史に残した足跡の大きさを示しています。
【追悼コメント】里崎智也さん・伊東勤さん・東福岡高校関係者が語った伊藤義弘さん
伊藤さんの訃報を受け、かつてチームメートとして戦った選手や指導者、関係者から追悼の声が寄せられました。
なかでも注目されたのが、2010年の日本シリーズでバッテリーを組んだ里崎智也さんのコメントです。
里崎智也さんがXで追悼元ロッテの捕手で、伊藤さんとともに2010年の日本一を経験した里崎智也さんは、訃報を受けて自身のXを更新しました。
里崎さんは、伊藤さんの投球技術と精神面の強さを評価し、次のように追悼しています。
「ストレート、スライダー、一級品! 気持ちも強く、素晴らしいリリーバー。」
加えて、2010年の日本シリーズ第7戦についても言及しました。
里崎さんは、伊藤さんが胴上げ投手になったことだけでなく、プロ初打席で浅尾投手の速球をバントし、岡田幸文選手の決勝打につなげた場面も振り返っています。
そして最後には、伊藤さんが心の中で生き続けるという思いを伝え、故人をしのびました。
捕手として何度もボールを受け、同じチームで勝利を目指した里崎さんの言葉には、数字だけでは表せない伊藤さんの投手としての魅力が込められています。
伊東勤さんも「タフで素晴らしいピッチャー」と評価2010年当時のロッテ監督だった西村徳文さんとは別に、後年ロッテの監督を務めた伊東勤さんも、伊藤さんの訃報を受けて追悼の言葉を残しています。
2025年10月9日、伊東さんは自身のYouTubeチャンネル「110チャンネル」で伊藤さんについて言及しました。
ロッテ時代を振り返り、大車輪の活躍を見せた選手として、その実力とタフさを評価しています。
また、野球に携わる仕事を続けていたことにも触れ、残された家族を気遣う言葉を寄せました。
伊東さんは加えて、選手たちに対して車やバイクの運転に注意するよう呼びかけています。伊藤さんの事故を、プロ野球界全体で交通安全を考えるきっかけとして受け止めた発言でした。
2026年1月、東福岡高校の藤田雄一郎監督も思い出を語る2026年に入ってからも、伊藤さんをしのぶ関係者の言葉が報じられています。
2026年1月5日、スポニチは東福岡高校の藤田雄一郎監督が、かつての教え子であり、同僚でもあった伊藤さんへの思いを語った記事を掲載しました。
藤田監督は高校時代の伊藤さんに体育の授業を担当し、卒業後も交流を続けていました。2020年に伊藤さんが教員として母校へ戻ってからは、同じ学校で働く関係にもなっています。
報道によると、伊藤さんは学校を辞める際、藤田監督の机に自身の野球カードを置いていったそうです。
その出来事を振り返りながら、藤田監督は次のように語っています。
「忘れないことが一番の供養になると思う」
この言葉は、伊藤さんが野球選手としてだけでなく、教え子や同僚としても周囲の人々に大切にされていたことを伝えています。
2026年現在、伊藤さんをめぐる報道で印象的なのは、日本シリーズの功績を振り返るだけでなく、教師として関わった人たちからも、その人柄や存在を惜しむ声が続いていることです。
【プロの結論】伊藤義弘さんの本当の功績は胴上げ投手だけではない
伊藤義弘さんの野球人生を振り返ると、2010年の日本シリーズで胴上げ投手になったことが最大のハイライトとして取り上げられます。
しかし、伊藤さんの功績をその一試合だけで評価するのは十分ではありません。
257試合の登板が示す救援投手としての価値救援投手は、先発投手と違い、試合の流れに応じて登板することが大切です。リードを守る場面、ピンチを切り抜ける場面、延長戦での登板など、状況に応じた対応力が必要です。
伊藤さんが2008年から2011年まで4年連続で50試合以上に登板した事実は、こうした役割を長期間担っていたことを意味します。
特に2010年の65試合登板と30ホールドは、リーグ3位から日本一を目指すチームにおいて、救援陣の一角として大きな働きをしたことを示しています。
故障と引退の経験を教育に生かしたこともう一つ見逃せないのが、引退後の進路です。
伊藤さんは、選手として順風満帆なキャリアを歩んだわけではありません。折れたバットによる負傷、右肘手術、長期リハビリ、戦力外通告、巨人の入団テスト不合格など、多くの困難を経験しました。
その経験を踏まえ、教師として子どもたちに伝えようとしたのは、野球の技術だけではありませんでした。
努力の仕方、目標の立て方、故障と向き合う姿勢、結果が出ないときの考え方。こうした内容は、プロ野球を経験した指導者だからこそ伝えられる教育材料です。
2016年の引退後に教職を目指し、大学院で学び直したことも、その思いを裏付けています。
Pitch+は新たな指導者人生への挑戦だった2025年9月に開講したPitch+は、伊藤さんが高校野球の監督を退任した後に始めた新しい活動でした。
プロ野球で培った投球技術を、より多くの選手に伝えようとする取り組みであり、教育者としての活動をさらに発展させる可能性を持っていました。
その開講からわずか1カ月ほどで事故に遭ったことは、野球関係者にとっても非常に大きな悲しみとなりました。
伊藤さんが残した価値は、現役時代の記録だけでなく、次世代の選手を育てようとした姿勢にもあります。
2010年の日本シリーズでの胴上げ投手という輝かしい実績と、引退後に教師として歩んだ人生。その両方を知ることが、伊藤義弘さんという人物を理解するうえで大切です。
【よくある質問】ロッテ伊藤義弘さんの現在・死去・成績に関するFAQ
Q1:伊藤義弘さんは現在どうしていますか?
A1:伊藤義弘さんは2025年10月6日、福岡市内で発生したバイク事故により43歳で亡くなりました。2026年現在は故人です。生前は東福岡高校の保健体育教諭や野球部監督を務め、2025年9月にはスローイング強化アカデミーPitch+を開講していました。
Q2:伊藤義弘さんの死因は何ですか?
A2:2025年10月6日に福岡市城南区鳥飼の交差点で発生した、バイクとタクシーの衝突事故によるものです。事故後に福岡市内の病院へ搬送され、同日午後4時16分に死亡が確認されました。医学上の詳細な死亡診断名は公表されていません。
Q3:伊藤義弘さんのロッテ時代の通算成績は?
A3:通算257試合に登板し、6勝13敗1セーブ、71ホールド、防御率3.83です。2008年から2011年まで4年連続で50試合以上に登板し、2010年には65試合登板、30ホールドを記録しました。
Q4:2010年日本シリーズで胴上げ投手になった試合は?
A4:2010年11月7日の中日ドラゴンズとの日本シリーズ第7戦です。延長12回までもつれた試合で、伊藤さんは11回から登板。2回を無安打無失点に抑え、ロッテの日本一を決定づける胴上げ投手となりました。
Q5:伊藤義弘さんはなぜ現役を引退したのですか?
A5:左足の負傷をきっかけに肩や腰、右肘などの故障が続き、長期リハビリを余儀なくされました。2016年にロッテから戦力外通告を受け、トライアウトと巨人の入団テストに挑戦しましたが、合格には至らず、同年11月に引退を表明しました。
Q6:伊藤義弘さんは引退後、何をしていましたか?
A6:2017年度から日本体育大学大学院で学び、体育学の修士号と教員免許を取得しました。2020年4月から母校の東福岡高校で保健体育教諭となり、同年夏から2025年夏まで硬式野球部監督を務めました。2025年9月にはPitch+を開講しています。
Q7:里崎智也さんは伊藤義弘さんについて何とコメントしましたか?
A7:里崎さんはXで伊藤さんを「気持ちも強く、素晴らしいリリーバー」と評価しました。2010年日本シリーズでの胴上げ投手としての活躍や、決勝打につながったバントにも触れ、心の中で生き続けるという思いを込めて追悼しました。
伊藤義弘さんは、2010年の日本シリーズ第7戦で胴上げ投手となり、千葉ロッテマリーンズの日本一を支えた元右腕です。
東福岡高校、國學院大學、JR東海を経て2007年のドラフト4巡目でロッテに入団。通算257試合に登板し、6勝13敗1セーブ、71ホールド、防御率3.83という成績を残しました。
一方で、2011年の左足の負傷や右肘の手術など、度重なる故障にも苦しみました。2016年に現役を引退した後は、教員免許を取得して母校・東福岡高校に戻り、保健体育教諭と硬式野球部監督として生徒たちを指導しました。
2025年9月にはPitch+を開講し、新たな挑戦を始めたばかりでしたが、同年10月6日、福岡市内でのバイク事故により43歳で亡くなりました。
2026年1月には東福岡高校の藤田雄一郎監督が思い出を語り、里崎智也さんや伊東勤さんらからも追悼の言葉が寄せられています。
伊藤義弘さんの人生には、日本一という栄光だけでなく、故障からの再起、引退後の学び直し、教育者としての挑戦がありました。
マウンドで見せた力強いストレートと、次世代の選手たちを育てようとした姿勢。その両方が、伊藤義弘さんが野球界に残した大切な功績です。