ナポレオン・ボナパルトといえば、「身長が低く、気性が激しい野心家」というイメージを思い浮かべる人も多いのではないだろうか。しかし、その人物像には、19世紀初頭の英国で広まった政治風刺や、フランスとイギリスの単位の違いによって生まれた大きな誤解が含まれている。
実際のナポレオンは何センチだったのか。なぜ「小さな独裁者」というイメージが定着したのか。そして、フランス革命後の混乱から皇帝へと上り詰めた彼は、優れた改革者だったのか、それともヨーロッパを戦争に巻き込んだ独裁者だったのか。2026年現在も歴史研究の重要な題材となっているナポレオンの生涯を、身長の記録、コルシカ島での生い立ち、政治改革、軍事的失敗、そして歴史的評価から読み解く。
【身長は本当に低かった?】ナポレオンの記録・フランス旧単位・英国風刺画を徹底検証

ナポレオンの本当の姿を考えるうえで、最初に整理したいのが身長の問題だ。
世界的に広まっている「ナポレオンは身長157cm程度だった」という説は、実際の身体測定記録をそのまま現代の単位に換算した結果ではない。フランスとイギリスで異なる長さの単位を使用していたことが、誤解を生む大きな要因になっている。
ナポレオンの身長は約168〜169cmだったナポレオンの死後に行われた身体測定に関する記録では、身長はフランス旧単位で5フィート2インチ4ラインとされている。
ここで注意したいのが、当時のフランスのフィートやインチは、現在の英米で使われるフィートやインチと長さが異なっていたという点だ。
フランスの旧単位であるピエ・ド・ロワ(pied du roi)は約32.48cm。1プース(pouce)は約2.707cmで、さらに1リーニュ(ligne)は約0.226cmだった。
この記録をフランス旧単位のまま換算すると、次のようになる。
- フランス旧単位の5フィート:約162.4cm
- 2インチ:約5.4cm
- 4ライン:約0.9cm
- 合計:約168.7cm
つまり、約157cmという数字は、フランスの5フィート2インチを現代の英米式の5フィート2インチと同じものとして扱った場合に生じる。
フランスの旧単位を正しく換算すれば、ナポレオンの身長は約168〜169cmという水準になる。歴史研究機関であるナポレオン財団の研究資料でも、死亡時の測定記録を約168.6cmとする説明が紹介されている。
もちろん、当時の測定方法や証言の違いを考慮する必要はある。それでも、ナポレオンを極端な低身長だったと断定する根拠は乏しい。
なぜ「ナポレオンは小男」という誤解が広まったのか身長の誤解を定着させたもう一つの大きな要因が、英国の風刺画家ジェームズ・ギルレイだ。
ギルレイは18世紀後半から19世紀初頭に活躍した政治風刺画家で、ナポレオンを題材にした作品を数多く制作した。英国とフランスの対立が激しくなるなか、彼はナポレオンを「Little Boney(小さなボニー)」という愛称で呼び、子どものように小さく描いた。
特に知られているのが、1803年に制作された「Maniac-ravings - or - little Boney in a strong fit」である。
この作品では、ナポレオンが激怒している様子を、誇張された小柄な人物として表現している。ナポレオンの怒りっぽさを強調し、英国にとって脅威となっていたフランスの指導者を滑稽に見せる政治的意図があった。
ロンドンのナショナル・ポートレート・ギャラリーの解説によると、ギルレイはナポレオン本人を直接観察したわけではなく、フランスの版画などを参考に風刺画を制作していた。加えて、英国との緊張が高まるにつれて、ナポレオンの描写をより小柄で幼稚な人物へと変化させていった。
これは単なる人物の似顔絵ではない。敵国の指導者の威厳を視覚的に引き下げる、政治宣伝としての役割を担っていたのである。
「プチ・カポラル」は身長を表す言葉ではないナポレオンには「ル・プチ・カポラル(Le Petit Caporal)」という有名な呼び名もある。日本語では「小伍長」と訳されることが多い。
しかし、これも低身長だった証拠ではない。
この呼び名は、1796年のイタリア遠征、とりわけロディの戦いに関連して兵士たちの間で広まったとされる。戦場で兵士と近い距離に立つ将軍の姿や、勇敢な行動への親しみを込めた呼称として理解されている。
つまり、「小伍長」という言葉には、部下から親しまれた軍人という側面がある。身長を直接示す呼び名として解釈するのは適切ではない。
ナポレオンの低身長説は、身体測定の単位の誤解と、敵国の政治風刺という二つの要素が重なって形成された歴史的イメージだったのである。
【コルシカ島で生まれた青年】ナポレオンの生い立ち・性格・人物像の真相
ナポレオンの性格や価値観を理解するには、皇帝として君臨する以前の生い立ちに目を向ける必要がある。
彼が生まれたのは1769年8月15日、地中海に浮かぶコルシカ島のアジャクシオだ。
フランス本土とは異なる環境で育った少年時代ナポレオンが生まれる前年の1768年、コルシカ島はジェノヴァ共和国からフランスへと移譲された。島の政治的帰属が変わった直後に生まれた彼は、フランスの支配下に入ったコルシカという複雑な歴史的環境で育った。
父カルロ・ブオナパルテは地元の名家に属し、家族の社会的地位を高めようと活動していた。母レティツィア・ラモリーノも、ナポレオンの人格形成に大きな影響を与えた人物として知られる。
ナポレオンは幼少期にコルシカ語やイタリア語の影響を受けた環境で育ち、9歳でフランス本土の学校へ進んだ。
入学先では、言葉の違いやコルシカ出身という背景から周囲になじめず、孤独を感じることもあったとされる。ブリエンヌの軍事学校を経て、パリの陸軍士官学校で砲兵教育を受け、1785年に砲兵将校としての道を歩み始めた。
砲兵は数学的な計算や地形の把握、火砲の運用に関する専門知識が必要な兵科である。ナポレオンが後に見せる戦場での判断力には、こうした教育と経験が深く関係していた。
ナポレオンの性格は冷静な戦略家であり、強烈な野心家だったナポレオンの人物像を一言で説明するなら、合理的な判断力と並外れた野心を併せ持つ人物だった。
彼の特徴として、次のような点が挙げられる。
- 高い実務能力:軍事作戦だけでなく、法律、行政、財政、教育などの制度設計にも関心を持っていた。
- 強い自己信頼:自分の能力を信じ、困難な状況でも主導権を握ろうとした。
- 決断の速さ:戦場や政治の局面で、状況を判断して迅速に行動する能力を発揮した。
- 競争心と野心:周囲からの評価を強く意識し、権力や名声を求め続けた。
- 支配的な一面:自分の判断を優先し、反対意見や政治的な批判を受け入れにくい傾向があった。
歴史家アダム・ザモイスキーは、ナポレオンの成功と失敗を、野心や自尊心、批判への敏感さなどの人格的要素から分析している。
ただし、ナポレオンの行動を単純に「コンプレックスの裏返し」と説明するのは無理がある。軍事教育、革命期の社会変動、組織を動かす能力、政治的な機会が重なった結果として、彼の急速な出世を捉えるべきだろう。
兵士たちを引きつけたカリスマ性ナポレオンが軍人として支持を集めた理由は、戦略的な能力だけではない。
兵士たちと共有する危険を恐れず、勝利の成果を軍隊の名誉として演出する能力にも優れていた。イタリア遠征では、フランス軍を率いてオーストリア軍などに勝利を重ね、若い将軍として一躍注目を集めた。
一方で、兵士への親しみやすさと、組織全体に対する厳しい統率は別の側面だ。ナポレオンは部下の能力を評価し、功績に応じて地位を与える一方、自らの命令に従うことを強く求めた。
この柔軟さと強権性の共存が、彼の軍事的な魅力であり、後の独裁的な政治運営にもつながっていく。
【フランス革命から皇帝へ】ブリュメール18日のクーデターと権力掌握の全貌
ナポレオンが歴史の表舞台に躍り出た背景には、1789年に始まったフランス革命がある。
革命によって王政が崩壊したフランスでは、政治体制が何度も変化し、国内の対立や周辺諸国との戦争が続いていた。王政復古を目指す勢力と革命を守ろうとする勢力が対立するなか、軍事的な成功を収めたナポレオンは国民的な人気を獲得していった。
1799年のブリュメール18日のクーデターナポレオンの政治的な転機となったのが、1799年11月9日から10日にかけて発生したブリュメール18日のクーデターだ。
当時のフランスでは、総裁政府(ディレクトワール)が政治を担っていた。しかし、政府は腐敗や政治的不安定、軍事的な困難を抱えており、体制への不満が高まっていた。
政治家エマニュエル=ジョゼフ・シエイエスらは、新しい政治体制を作るためにナポレオンの軍事的な力を必要としていた。
クーデターでは、議会がパリ郊外のサン=クルーへ移され、軍隊が議会周辺を掌握した。翌日、議会で反発が起きたものの、軍事力を背景に旧体制は崩壊する。
こうしてナポレオンは統領政府の第一統領に就任し、事実上の国家指導者となった。
第一統領からフランス皇帝へ権力を握ったナポレオンは、国家の安定と行政改革を進めた。1802年には終身統領となり、1804年12月2日にはノートルダム大聖堂で戴冠式を行い、ナポレオン1世としてフランス皇帝に即位した。
革命によって王政を打倒したフランスが、再び皇帝を戴く体制へと移行したのである。
ナポレオンの生涯における主要な出来事を整理すると、次のようになる。
| 年代 | 出来事・関係者 | 歴史的な意味 |
|---|---|---|
| 1769年 | コルシカ島アジャクシオで誕生 | フランス領となった直後のコルシカで生まれる |
| 1785年 | 砲兵将校として軍歴を開始 | 専門的な軍事教育を背景にキャリアを形成 |
| 1796年 | イタリア遠征・ロディの戦い | 軍人として名声を高める |
| 1799年11月9〜10日 | ブリュメール18日のクーデター | 総裁政府を倒し、第一統領となる |
| 1804年3月21日 | ナポレオン法典の公布 | フランスの民法を統一する |
| 1804年12月2日 | ナポレオン1世として戴冠 | 第一帝政が始まる |
| 1812年 | ロシア遠征 | 大陸支配を揺るがす軍事的失敗 |
| 1814年 | 退位・エルバ島へ流刑 | 第一帝政が崩壊する |
| 1815年6月18日 | ワーテルローの戦い | 復位後のナポレオンが決定的敗北を喫する |
| 1815年10月 | セントヘレナ島へ移送 | 最後の流刑生活が始まる |
| 1821年5月5日 | セントヘレナ島で死去 | 波乱に満ちた生涯が終わる |
この年表から分かるのは、ナポレオンが軍事的な成功を政治的な権力へと結び付け、わずかな期間で国家体制そのものを変化させたことだ。
しかし、彼の権力掌握は民主主義の完成を意味するものではなかった。革命後の混乱を収束させた一方で、政治的な意思決定は次第に一人の指導者へ集中していった。
【ナポレオン法典の功績と代償】近代化の英雄か、自由を抑えた独裁者か
ナポレオンの歴史的功績を語るうえで、軍事的な勝利以上に重要なのがナポレオン法典(Code civil)だ。
1804年3月21日に公布されたこの民法典は、フランス国内に分散していた法律を統一し、近代的な法制度の基盤を築いた。
ナポレオン法典がヨーロッパに残した功績革命前のフランスでは、地域によって適用される慣習法や法制度が異なっていた。法的な扱いが統一されていないことは、行政や経済活動にも影響を与えていた。
ナポレオン法典は、こうした問題を解決するために制定された。
フランス国民議会の歴史資料によれば、法典は36の法律と2,281条で構成され、人物、財産、所有権などを中心に体系化された。
主な意義は次の通りだ。
- 法の統一:地域ごとに異なっていた民事法制度を統一した。
- 財産権の保護:個人の財産や所有権に関する法的基盤を整えた。
- 法的な平等の原則:身分による旧来の特権を否定し、近代的な市民社会の法制度を形成した。
- 契約関係の整理:市民生活や経済活動に関する法的なルールを明確化した。
この法典はフランス国内だけでなく、ナポレオンの支配地域や周辺国にも影響を与えた。後のヨーロッパ大陸法体系の形成にもつながり、現在のフランス民法にも歴史的な影響を残している。
しかし女性の権利は後退したナポレオン法典を全面的に進歩的な法律として評価することには注意が必要だ。
特に大きな問題となったのが、女性の法的地位である。
法典は夫を家庭の中心的な権限者と位置づけ、既婚女性の法的な自立を大きく制限した。女性は夫の同意なしに自由に財産を管理したり、法的な行為を行ったりすることが難しくなった。
1789年以降の革命期には、女性の財産権などをめぐって一定の改革が進んでいたが、ナポレオン体制は家庭内の男性優位を法制度として強化したのである。
また、ナポレオンは1802年にフランス植民地で奴隷制を復活させる政策を進めた。革命が掲げた自由と平等の理念との間には、明確な矛盾が存在していた。
報道統制と政治的独裁の実態ナポレオンの政治には、国家を効率的に運営する改革者としての側面と、反対意見を抑え込む独裁者としての側面があった。
彼は行政機構を整備し、中央政府の統制力を強化した。警察組織を活用し、政治的な反対勢力を監視するとともに、新聞や出版物に対する検閲も強めた。
特に帝政期には、新聞の発行が厳しく制限され、政治的な批判を自由に展開することが困難になった。
加えて、国民投票などを利用して統治の正当性を示したものの、政治的な意思決定はナポレオン本人に集中していった。
ここに、ナポレオンを単純な英雄として扱えない理由がある。
彼は革命によって生まれた社会的な機会を利用して権力を獲得した。しかし、その権力を維持する過程では、革命が掲げた政治参加や言論の自由を制限する方向へ進んだ。
法の近代化を進めた改革者でありながら、政治的自由を抑圧した統治者でもあった。この二面性こそが、ナポレオンの評価を複雑にしている。
【ロシア遠征からワーテルローへ】ナポレオンが敗北した本当の理由
ナポレオンの没落を決定づけたのは、1812年のロシア遠征と1815年のワーテルローの戦いだった。
それまでヨーロッパ各地で勝利を重ねてきたフランス軍は、これらの戦役で大きな損失を被り、ナポレオンの政治的・軍事的な支配力は急速に弱まっていく。
1812年ロシア遠征で何が起きたのか1812年6月24日、ナポレオンは大陸軍(グランダルメ)を率いてロシアへ侵攻した。
遠征軍はフランス人だけで構成されていたわけではない。フランスの同盟国や従属地域から集められた兵士も含まれ、20か国以上の兵士が参加した大規模な軍隊だった。
遠征軍の規模は資料によって差があるものの、50万人を超える兵力だったとされる。
当初、ロシア軍はフランス軍との決戦を避けながら後退を続けた。ロシア側は退却する際に村落や農作物を焼き払う焦土作戦を展開し、侵攻してきたフランス軍が現地で食料を確保することを困難にした。
ここで問題になったのが、補給体制だった。
大軍を遠方まで進めるには、食料、飼料、弾薬、医療品などを継続的に届けなければならない。しかし、ロシアの広大な国土、道路事情、輸送能力の不足が重なり、補給は次第に追いつかなくなった。
1812年9月のボロジノの戦いでは激しい戦闘が発生した。ナポレオン軍はモスクワへ進み、同年9月にはモスクワを占領する。しかし、ロシア側は決定的な和平に応じなかった。
モスクワを手に入れたにもかかわらず、戦争を終わらせられない。加えて、食料不足や寒さ、病気、ロシア軍の攻撃がフランス軍を追い詰めていった。
ナポレオンは撤退を決断するが、帰路でも大きな損害を受ける。
ロシア遠征の失敗は、単に冬の寒さだけで説明できるものではない。補給計画の不備、ロシア軍の戦略、広大な戦域、長期化する戦争への対応力不足が重なった結果だった。
1814年、皇帝退位とエルバ島への流刑ロシア遠征後、ナポレオンの敵対勢力は勢いを取り戻した。
ロシア、プロイセン、オーストリア、イギリスなどが連携し、フランスに対する軍事的圧力を強めていく。ナポレオンは1813年のライプツィヒの戦いでも敗北し、フランス本土への侵攻を許すことになった。
1814年、ナポレオンは皇帝の座を退き、地中海に浮かぶエルバ島へ流された。
しかし、彼の政治的な野心は消えていなかった。1815年3月、エルバ島を脱出してフランスへ戻り、再び権力を掌握する。
この復帰から最終的な敗北までの期間は「百日天下」と呼ばれている。
ワーテルローの戦いで敗北した理由1815年6月18日、現在のベルギーにあるワーテルロー付近で、ナポレオン軍と連合軍が激突した。
ナポレオンの相手となったのは、イギリス・オランダなどを中心とするウェリントン公爵の連合軍と、プロイセン軍を率いるブリュッヒャーだった。
ナポレオンの基本戦略は、敵軍が合流する前に各個撃破することだった。実際、6月16日のリニーの戦いではプロイセン軍に勝利している。
しかし、プロイセン軍は壊滅していなかった。退却後も戦力を維持し、ウェリントン軍との連携を保っていた。
ワーテルローの戦いでは、前夜からの激しい雨で地面がぬかるみ、ナポレオン軍は攻撃開始を遅らせた。その間に戦況は変化し、フランス軍の攻撃は連合軍の防御を崩しきれなかった。
加えて、午後にはプロイセン軍が戦場へ到着し、連合軍を支援した。フランス軍は複数方向から圧力を受け、最後の切り札として投入した近衛軍も撃退される。
ナポレオンは決定的な敗北を喫し、6月22日に再び退位した。
ワーテルローの敗北は、雨だけが原因ではない。プロイセン軍との連携を断ち切れなかったこと、フランス軍の作戦遂行上の問題、連合軍の持久力と増援が重なった結果だった。
セントヘレナ島で迎えた最後の日々二度目の退位後、ナポレオンは英国に降伏し、大西洋南部にあるセントヘレナ島へ送られた。
エルバ島とは異なり、セントヘレナ島はヨーロッパから遠く離れた孤立した島だった。英国側は脱出を防ぐため、ナポレオンの行動を厳しく管理した。
彼は島内のロングウッド・ハウスで晩年を過ごし、過去の戦争や政治、人生について回想する時間を持った。
1821年5月5日、ナポレオンはセントヘレナ島で死去した。享年51。彼の生涯は、コルシカ島の一士官候補生からヨーロッパの皇帝へ、そして遠い島での流刑者へと劇的に変化した。
【英雄か独裁者か】ナポレオンの歴史的評価と本当の人物像
ナポレオンは、歴史上の人物のなかでも評価が大きく分かれる存在だ。
フランスでは、国家の近代化を進めた指導者として記憶される一方、ヨーロッパ各地では侵略と戦争を拡大させた皇帝として批判されることもある。
英雄として評価される3つの理由第一に、フランス革命後の混乱を収束させ、国家の行政機構を整備したことだ。
革命後のフランスでは政治体制が不安定で、国内の対立も深刻だった。ナポレオンは中央集権的な行政制度を整え、国家運営の効率化を進めた。
第二に、ナポレオン法典による法制度の統一である。身分制社会の旧来の仕組みを整理し、所有権や契約などを近代的な法律として体系化したことは、後世にも大きな影響を残した。
第三に、軍事・教育・財政などの分野で長期的な制度改革を行ったことだ。銀行制度の整備や教育機関の再編、国家的な栄典制度の設立なども、彼の統治期を特徴づける政策だった。
独裁者として批判される3つの理由一方で、ナポレオンの統治には深刻な問題も存在した。
第一に、権力の集中である。クーデターによって政権を握り、最終的には皇帝となった彼は、議会や政治的な反対勢力の影響力を弱めた。
第二に、言論の自由の制限だ。新聞や出版物への検閲、警察による監視は、自由な政治的議論を妨げた。
第三に、終わりの見えない戦争による人的・経済的損失である。ヨーロッパ各地で戦争を続けた結果、多くの兵士や市民が犠牲になり、フランスの国力も消耗した。
加えて、ナポレオン法典が女性の法的な自立を制限したことや、植民地で奴隷制を復活させたことも、現代の価値観から厳しく評価される点だ。
ナポレオンの評価は何を基準に判断すべきかナポレオンを理解する際には、軍事的な才能、政治的な成果、社会制度への影響、そして戦争による犠牲を分けて考える必要がある。
軍事的な勝利が多かったからといって、政治的な統治が正当化されるわけではない。法制度を整えたからといって、言論統制や植民地政策の問題が消えるわけでもない。
逆に、独裁者だったという理由だけで、近代法制度や行政改革に残した影響まで否定することも歴史の理解を狭めてしまう。
【プロの結論】ナポレオンの本当の姿は、革命の成果と矛盾を体現した人物ナポレオンの本質を捉えるうえで重要なのは、彼を英雄か悪人かという二択で分類しないことだ。
彼は革命によって旧来の身分秩序が揺らいだ時代に、軍事的な能力と政治的な判断力を武器に出世した。社会の変化を利用するだけでなく、自ら新しい制度を作り、ヨーロッパの政治地図まで変えた人物だった。
しかし、権力を握ると、その革命の理念を自らの統治に都合よく制限した。自由と平等を掲げた時代の申し子でありながら、政治的自由を抑え、皇帝として支配を強化したのである。
また、身長に関する誤解が示すように、歴史上の人物像は必ずしも本人の実態だけで形成されるわけではない。英国の風刺画、敵対国の宣伝、後世の伝記や映画などが重なり、ナポレオンという人物のイメージを作り上げてきた。
歴史上の人物を正確に理解するには、記録された数字、当時の社会制度、敵味方双方の視点、そして実際に残された政策や結果を照らし合わせることが欠かせない。
ナポレオンは小柄な独裁者という単純なイメージには収まらない。優れた軍事指導者であり、近代国家の制度設計者であり、同時に権力の集中と戦争拡大を進めた支配者だった。その矛盾こそが、200年以上を経た2026年の現在も彼が研究され続ける理由なのである。
【ナポレオンの本当の姿】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:ナポレオンの身長は何センチだった?
A1:死後の身体測定に関する記録をフランス旧単位で換算すると、約168〜169cmとされる。157cmという説は、フランスとイギリスの単位の違いを正しく考慮しなかったことが主な原因だ。
Q2:ナポレオンが小柄だったという噂はなぜ広まった?
A2:英国の風刺画家ジェームズ・ギルレイが、ナポレオンを「Little Boney」として小さく滑稽に描いたことが大きく影響している。英国との政治的・軍事的対立を背景に、敵国の皇帝の威厳を弱める表現として広まった。
Q3:「プチ・カポラル(小伍長)」という呼び名の意味は?
A3:兵士たちがナポレオンに親しみを込めて使った呼称とされる。1796年のイタリア遠征、特にロディの戦いに関連して知られるようになった。身長が低かったことを直接示す言葉ではない。
Q4:ナポレオンの最大の功績と失敗は何?
A4:最大の功績の一つは、1804年のナポレオン法典によるフランス民法の統一と近代的な行政制度の整備だ。一方、最大の軍事的失敗として知られるのが1812年のロシア遠征であり、補給の破綻やロシア軍の戦略によって大軍を失ったことが帝国崩壊の大きな要因となった。
ナポレオン・ボナパルトの本当の姿は、一般的に広まっている「小柄で怒りっぽい皇帝」というイメージとは大きく異なる。
身長はフランス旧単位で記録された約168〜169cmと考えられ、低身長説には英国風刺画や単位換算の誤解が影響していた。
コルシカ島で生まれた彼は、フランス革命という激動の時代を背景に軍人として頭角を現し、1799年のブリュメール18日のクーデターで権力を掌握した。その後、ナポレオン法典をはじめとする改革を進め、フランスとヨーロッパの制度に大きな影響を残した。
しかし、政治的な自由の制限、女性の権利の後退、植民地での奴隷制復活、そして拡大する戦争は、彼の統治が抱えた重大な問題だった。
1812年のロシア遠征、1815年のワーテルローの敗北、エルバ島とセントヘレナ島への流刑は、軍事的な野心が国家と本人の運命を大きく左右したことを示している。
ナポレオンは英雄でもあり、独裁者でもあった。どちらか一方の評価に偏らず、身長の記録から政治改革、戦争の犠牲までを一つの歴史として捉えることが、彼の実像を理解する最も確かな方法だ。
主な歴史資料・参考機関
- ナポレオン財団:身長の測定記録、生涯、統治制度、ナポレオン法典
- ロンドン・ナショナル・ポートレート・ギャラリー:ジェームズ・ギルレイの風刺画と「Little Boney」の成立
- フランス国民議会:ブリュメール18日のクーデター、ナポレオン法典の制定
- 米国議会図書館:英国政治風刺画の歴史的記録
- ケンブリッジ大学フィッツウィリアム美術館:ロシア遠征とワーテルローの戦い
- 英国国立陸軍博物館:ワーテルローの戦闘経過とナポレオンの最終的な敗北
- 米国議会図書館:ナポレオン時代の女性の法的地位