徳川家康の肖像画として知られる「しかみ像」。顔をしかめ、片手を頬に添えた独特の姿から、三方ヶ原の戦いで武田信玄に敗れた家康が、自らの慢心を戒めるために描かせた絵として広く知られてきました。しかし、2026年現在、徳川美術館が公開している作品解説は、この有名な伝承について「史料的な根拠はありません」と明確に説明しています。加えて、作品の制作年代は家康が敗れた1572年ではなく、江戸時代の17世紀とされています。
では、しかみ像は本当は何を描いた作品なのでしょうか。鍵を握るのは、尾張徳川家に残された蔵帳、江戸時代の伝来記録、そして徳川美術館の学芸員による研究です。2024年に発表された新たな歴史研究も踏まえ、三方ヶ原の戦いとの関係、制作年代、武神としての礼拝像という解釈、浜松との関係まで整理します。
【しかみ像とは何か】徳川家康の肖像画に隠された本当の正体

しかみ像は、徳川美術館が所蔵する徳川家康の肖像画です。正式な作品名として「徳川家康画像(しかみ像)」のほか、「徳川家康三方ヶ原戦役画像」という名称でも知られています。
作品の最大の特徴は、一般的な武将の肖像画とは大きく異なる人物の表情と姿勢です。威厳を強調した権現像や、堂々とした甲冑姿の肖像とは異なり、顔には険しい表情が浮かび、片足を上げて手を顔に添える独特の姿で描かれています。
しかみ像の基本情報- 作品名:徳川家康画像(しかみ像)
- 別称:徳川家康三方ヶ原戦役画像
- 描かれた人物:徳川家康
- 所蔵館:徳川美術館
- 制作年代:江戸時代・17世紀
- 作品形式:掛軸・一幅
- 材質・技法:絹本著色
- 本紙寸法:縦37.8cm、横21.8cm
- 作者:不詳
これらの基本情報は、徳川美術館の公式コレクション情報に掲載されています。
なぜ「しかみ像」と呼ばれるのか「しかみ」は、顔にしわを寄せたり、歯を食いしばったりするような表情を意味する言葉です。漢字では「顰」と表記されます。
作品の家康は、眉間にしわを寄せ、口元にも強い緊張感を漂わせています。この特徴的な表情が、しかみ像という呼び名につながりました。
ただし、ここで注意したいのは、表情が険しいからといって、必ずしも敗戦直後の苦悩を描いたものとは限らないことです。人物の表情には、描かれた目的や当時の宗教観、肖像画の様式が反映される場合があります。
現在の研究では、この表情を単なる悔しさではなく、神仏のような存在にふさわしい忿怒の表現として捉える見方が重視されています。
【伝説の真偽】三方ヶ原の戦いで敗れた家康が自分の姿を描かせたのか
しかみ像をめぐる最大の疑問は、徳川家康が三方ヶ原の戦いでの敗北を忘れないために、自分の惨めな姿を絵師に描かせたのかという点です。
この逸話は、歴史の教訓として非常に印象的です。しかし、徳川美術館の現行解説では、伝承には史料的な根拠がないとされています。
三方ヶ原の戦いとは三方ヶ原の戦いは、元亀3年(1572年)12月22日、遠江国の三方ヶ原で徳川家康と武田信玄の軍勢が衝突した戦いです。
当時の家康は浜松城を拠点としており、遠江へ侵攻した武田軍と対峙しました。武田信玄は経験豊富な戦国大名であり、その軍勢は徳川方にとって大きな脅威でした。
この戦いで徳川軍は敗北し、家康は浜松城へ退却します。家康の生涯における重要な軍事的危機として語り継がれてきました。
その後の家康が経験を重ね、江戸幕府を開くまでに至ったことから、この敗戦は失敗を糧に成長した天下人の象徴として扱われるようになりました。
有名な自戒の逸話はどこから生まれたのか従来の説明では、敗戦後の家康が自分の情けない姿を絵師に描かせ、二度と同じ失敗をしないよう生涯手元に置いたとされています。
しかし、徳川美術館の原史彦氏が2016年に発表した研究「徳川家康三方ヶ原戦役画像の謎」では、この伝承が成立した経緯そのものが検証されました。
同研究によれば、江戸時代の三方ヶ原合戦に関する諸記録には、家康が敗戦直後の姿を描かせたという話は確認できません。
家康が浜松城に戻った後の行動としては、城門を開け放ち篝火を焚いた話や、湯漬けを食べて休んだという話などが伝えられています。しかし、しかみ像を制作させたという記述は、これらの記録には見当たりません。
また、江戸後期の天保7~8年(1836~1837年)頃にまとめられた家康の言行録『披沙揀金』にも、この肖像画に関する自戒の逸話は登場しません。
家康の人徳を称えるために編まれた記録にも記載がないことは、この伝承が江戸時代から広く知られていたわけではないことを示す重要な手掛かりです。
伝説が広まったのは昭和時代だった原氏の研究で特に注目されたのは、しかみ像と三方ヶ原の戦いを結びつける説明が、近代に入ってから形成された可能性です。
徳川美術館の開館に伴う展示や新聞報道を通じて、作品の説明は変化していきました。1936年(昭和11年)1月には新聞で三方ヶ原の敗戦を記念する肖像画として紹介され、その後、家康が慢心を戒めるために描かせたという説明が定着していきます。
つまり、現在広く知られている逸話は、1572年の出来事を直接記録したものではなく、昭和初期に形成され、後年の美術館図録などを通じて広まった物語と考えられるのです。
【江戸時代の記録を検証】しかみ像の由来と尾張徳川家の伝来
伝説の真偽を考えるうえで、最も重要なのが作品そのものの伝来記録です。
原史彦氏の研究では、尾張徳川家に伝わった道具帳や作品の収納記録が詳しく調べられました。その結果、現在のしかみ像が江戸時代にはどのように扱われていたのかが明らかになっています。
蔵帳に記された「東照宮尊影」尾張徳川家の記録では、この作品は「東照宮尊影」として記載されています。
東照宮は徳川家康を神格化して祀る存在であり、「東照宮尊影」は家康の尊い肖像を意味します。
ここで重要なのは、当時の記録に三方ヶ原の敗戦や、家康自身が反省のために制作させたという説明が存在しないことです。
加えて、記録に残る寸法や表装の特徴を照合した結果、この作品が現在徳川美術館に所蔵されているしかみ像と一致することも確認されています。
1780年に紀伊徳川家から尾張徳川家へ研究によると、この作品は安永9年(1780年)、紀伊徳川家から尾張徳川家へ嫁いだ従姫の持参品でした。
従姫は尾張徳川家9代藩主・徳川宗睦の養子となった治行の正室です。彼女は紀伊徳川家から嫁ぐ際に、この肖像画を持参したと考えられています。
従姫は文化元年(1804年)に亡くなり、その翌年の文化2年(1805年)、作品は家康ゆかりの道具などを収納する「御清御長持」に収められました。
この伝来経緯は、しかみ像が家康の死後、将軍家から尾張徳川家へ直接伝わった遺品だったという単純な説明とは異なります。
しかみ像の歴史的な名称と伝承の変化作品の名称が変化していった過程を整理すると、現在の伝説がどのように形成されたのかが見えてきます。
| 時期 | 出来事・記録 | 歴史的な意味 |
|---|---|---|
| 1572年12月 | 三方ヶ原の戦い | 家康が武田信玄に敗北した時期 |
| 17世紀 | しかみ像の制作 | 徳川美術館の現行評価では江戸時代の作品 |
| 1780年 | 従姫が紀伊徳川家から尾張徳川家へ嫁ぐ | 作品が持参品として尾張家に入る |
| 1805年 | 御清御長持に収納 | 蔵帳に「東照宮尊影」と記録される |
| 1880年 | 尾張徳川家の御器物目録 | 長篠戦役陣中小具足着用之像という名称が確認される |
| 1910年 | 名古屋開府300年祭の什宝陳列 | 長篠合戦に関する説明が紹介される |
| 1936年 | 新聞報道で三方ヶ原の敗戦と結びつく | 現在の有名な伝承が広まる契機となる |
| 1972年 | 徳川美術館の名品図録 | 敗戦の自戒として生涯手元に置いたという説明が定着 |
| 2016年 | 原史彦氏の研究発表 | 伝承の史料的根拠と成立過程を再検証 |
| 2024年 | 井上亘氏の歴史研究 | 武神としての肖像という解釈を地政学的視点から考察 |
この年表から分かるのは、作品の存在そのものと、三方ヶ原の敗戦を描いたという解釈は別の問題だということです。
江戸時代の記録では家康の肖像として扱われていましたが、戦役との関係を示す説明は、後世になって付け加えられたと考えられます。
特に、1880年の記録にある長篠戦役という名称と、1936年以降の三方ヶ原戦役という名称の変化は、作品の伝承が固定されたものではなかったことを示しています。
【制作年代と本来の意味】しかみ像は武神を祀る礼拝像だったのか
三方ヶ原の敗戦直後に描かれたという説が成立しにくくなったことで、次に注目されるのが作品の制作年代と図像の意味です。
制作年代は1572年ではなく17世紀徳川美術館の現行コレクション情報では、しかみ像の時代は江戸時代、世紀は17世紀とされています。
これは、三方ヶ原の戦いが起きた元亀3年(1572年)から数十年後に当たります。
つまり、家康が敗戦直後に自分の姿を描かせたという説明と、現在残っている作品の制作年代には大きな隔たりがあります。
ただし、17世紀の作品であることだけから、同じ図様の原本が過去に存在しなかったと断定することはできません。後世の模写や図像の継承という可能性は別途検討する必要があります。
なお、文化遺産オンラインには桃山時代・16世紀とする旧来の登録情報も残っています。所蔵館の現行作品情報と異なるため、制作年代を確認する際には、現在の徳川美術館の評価を優先して理解するのが適切です。
武神としての家康を表現したという解釈徳川美術館が現在示している有力な解釈は、しかみ像が徳川家康を武神として祀るための礼拝像だったというものです。
この説を考えるうえで重要なのが、肖像画の姿勢と表情です。
一般的な戦場の記録画であれば、合戦の様子や陣地、武将同士の関係など、具体的な戦闘状況を示す要素が描かれることがあります。しかし、しかみ像には、特定の合戦の現場を示す明確な描写がありません。
一方、正面性の強い構図、片足を上げた姿勢、険しい表情などは、神仏や神格化された人物を表現する図像との関連から考察できます。
この解釈では、顔の険しさは敗戦の悔しさではなく、敵を威圧する神の忿怒の表現と理解されます。
半跏思惟像との共通点しかみ像の姿勢については、仏教美術における半跏思惟像との共通性も指摘されています。
半跏思惟像は、片足を組み、手を顔の近くに添える姿勢で表現される仏教美術の形式です。代表的なものには弥勒菩薩像などがあります。
しかみ像も、片足を上げ、手を顔に添える特徴的な姿勢をしています。そのため、単なる戦場での苦悩を描いた絵ではなく、宗教的な意味を持つ肖像画だった可能性が検討されています。
ただし、しかみ像そのものを弥勒菩薩と断定することはできません。重要なのは、仏教美術の図像表現を取り入れながら、家康を神格化するための肖像として制作された可能性です。
2024年の研究が示した新たな視点2024年9月には、常葉大学の井上亘氏が論文「『顰面』の天下人―駿府と浜松の地政学」を発表しました。
この研究では、しかみ像を三方ヶ原の敗戦に結びつける従来の説明を再検討するとともに、家康の晩年の政治構想や、駿府・浜松の歴史的な位置関係を踏まえて作品の意味を考察しています。
注目されるのは、家康を単なる歴史上の武将ではなく、徳川政権とその子孫を守護する軍神として捉える視点です。
家康は死後、東照大権現として神格化されました。久能山東照宮をはじめとする祭祀の背景には、徳川家の権威と政権の安定を象徴する役割がありました。
井上氏は、しかみ像の険しい表情についても、敗戦による悔しさではなく、敵を睨む忿怒の表現として考察しています。
加えて、紀伊徳川家に伝わった家康の神格化された姿が、尾張徳川家へ伝わった可能性にも言及しています。ただし、この伝来経路の具体的な復元については、論文中でも仮説として扱われています。
したがって、2024年の研究は作品の意味を考えるうえで重要な新しい視点ですが、制作目的が完全に確定したという意味ではありません。
【浜松市博物館としかみ像】地域に残る伝承と学術研究の違い
しかみ像を語るうえで欠かせない地域が静岡県浜松市です。三方ヶ原の戦いが行われた土地であり、家康が若い時期に拠点を置いた浜松城とも深い関係があります。
浜松では、しかみ像は歴史観光や地域文化の象徴としても受け入れられてきました。しかし、地域に残る伝承と、作品そのものの制作年代や由来を解明する学術研究は区別して考える必要があります。
浜松市博物館では等身大立体像を展示2015年3月、浜松市博物館では、徳川家康の肖像画をもとに制作された「等身大立体しかみ像」が展示されました。
これは徳川家康公顕彰四百年記念事業の一環として行われた企画です。
浜松経済新聞の2015年3月2日付報道によると、立体像は高さ159cmで、制作には約250万円、約6カ月を要しました。
肖像画には正面から見た情報しかないため、衣装や装飾品の細部、側面の形状などについて研究者の意見を取り入れながら再現されたとされています。
この展示は、しかみ像を立体的に理解するうえで興味深い取り組みでした。ただし、これは肖像画をもとにした再現展示であり、三方ヶ原の敗戦伝説を裏付ける新たな史料調査の成果ではありません。
浜松に残る三方ヶ原の伝承浜松周辺には、三方ヶ原の戦いに関連するさまざまな地域伝承があります。
その代表例として知られるのが、小豆餅や銭取という地名に結びついた逸話です。
伝承では、敗走中の家康が小豆餅を食べていたところ武田軍に追いつかれ、餅代を払わずに逃げたため、店の老婆が追いかけて代金を取り立てたとされています。
この話は地域の歴史や観光を語る際に親しまれていますが、徳川美術館の原氏による研究では、逸話の成立を裏付ける確かな出典は明らかになっていないと指摘されています。
このような話は、歴史的な出来事を地域の人々が語り継ぐ過程で、物語として形作られていくことがあります。
地域伝承としての価値と、当時の出来事を証明する史料としての価値は、必ずしも同じではありません。
浜松市博物館の情報と徳川美術館の研究をどう区別するかしかみ像の歴史的な由来を調べる場合、資料の役割を分けて考えることが大切です。
- 徳川美術館:所蔵作品の寸法、材質、制作年代、伝来記録、図像解釈を確認するための中心的な資料。
- 浜松市博物館:三方ヶ原の戦いや浜松の地域史、関連展示を理解するための資料。
- 常葉大学の研究:家康の神格化や駿府・浜松の地政学的背景から、作品の意味を考察する学術的な資料。
2026年時点で確認できる主要な研究成果では、作品の由来を直接検証するうえで、徳川美術館の所蔵記録と原史彦氏の研究が重要な位置を占めています。
浜松市博物館の展示実績や地域資料は、しかみ像が浜松の歴史文化の中でどのように受け止められてきたかを理解するうえで役立ちます。
【伝説が残り続ける理由】しかみ像はなぜ家康の失敗の象徴になったのか
史料的な根拠が乏しいにもかかわらず、しかみ像の自戒の逸話が広く知られるようになったのはなぜでしょうか。
その理由は、徳川家康という人物の歴史的な評価と、肖像画が持つ視覚的な印象の組み合わせにあります。
失敗を認めて成長した天下人という物語家康は、織田信長や豊臣秀吉と並ぶ戦国時代の重要人物であり、最終的に江戸幕府を開いた天下人です。
しかし、若い頃からすべての戦いに勝利していたわけではありません。三方ヶ原の戦いは、家康の軍事的な経験を語るうえで重要な敗北でした。
そこに、しかみ像の険しい表情が重なることで、敗北を忘れず、自分を律し続けた家康という人物像が生まれます。
これは、歴史的な事実の説明とは別に、人物の生き方を理解するための物語として非常に強い説得力を持っています。
原氏の2016年の論文も、この伝承が広く受け入れられた背景として、失敗を反省して次の成功につなげる人生譚が人々の共感を呼んだことを指摘しています。
肖像画の表情が伝説を強化した一般的な徳川家康の肖像画には、威厳や落ち着きを感じさせるものが多くあります。
それに対して、しかみ像は険しい表情を前面に押し出しています。
そのため、見る人は自然に「何があったのだろう」「なぜこのような顔をしているのだろう」と疑問を抱きます。
そこに三方ヶ原の敗戦という歴史的な出来事を結びつければ、非常に分かりやすい物語が成立します。
一度成立した説明は、観光案内や歴史書、展示解説などを通じて繰り返され、やがて作品の由来そのものとして認識されるようになりました。
伝説と史実を見分けるための判断基準しかみ像をめぐる情報を調べる際には、次の3点を確認すると理解しやすくなります。
- 同時代の記録があるか:家康が実際に制作を命じたことを示す文書や記録が残っているか。
- 作品の制作年代と一致するか:1572年の出来事を描いたという説明と、17世紀制作という作品評価に矛盾がないか。
- 所蔵記録に何と書かれているか:江戸時代の蔵帳や道具目録に、現在の説明と一致する由緒が記されているか。
この基準で見ると、しかみ像の自戒伝説は、家康の生涯を理解するための有名な物語ではあるものの、史料によって証明された制作秘話とは区別する必要があります。
【プロの結論】しかみ像の真相から分かる徳川家康の歴史的背景
しかみ像の研究で興味深いのは、伝説が否定されたことで作品の価値が失われたわけではないという点です。
むしろ、作品の伝来記録や図像の特徴を調べることで、徳川家康が死後にどのように神格化され、徳川家の権威を支える存在として位置づけられていったのかという、より大きな歴史的背景が見えてきます。
敗戦の記念画から神格化された肖像へ従来の説明では、しかみ像は家康個人の失敗と反省を象徴する絵でした。
一方、現在の研究では、家康を武神として祀る礼拝像だったという解釈が有力になっています。
この違いは、作品の意味を大きく変えます。
前者は一人の武将の人間的な弱さを表現する肖像であり、後者は徳川政権の守護者として神格化された家康の姿を表す肖像です。
特に江戸時代の徳川家にとって、家康の神格化は単なる死後の追悼ではありません。徳川将軍家の正統性や政権の安定を象徴する重要な文化的・宗教的な意味を持っていました。
2026年時点での研究上の到達点2026年11月時点で確認できる主要な資料を整理すると、次のようになります。
- 確かなこと:しかみ像は徳川家康の肖像として江戸時代から認識されていた。
- 所蔵館の現行評価:制作年代は江戸時代の17世紀である。
- 史料上の問題:三方ヶ原の敗戦を忘れないために家康が描かせたという伝承には根拠がない。
- 伝来の手掛かり:1780年に従姫の持参品として尾張徳川家に入り、1805年に御清御長持へ収納された。
- 有力な解釈:家康を武神として祀る礼拝像だった可能性がある。
- 研究上の課題:具体的な制作目的や、紀伊徳川家以前の伝来経路については、なお検討の余地がある。
2016年の原氏の研究に加え、2024年の井上氏の研究によって、しかみ像は単なる敗戦の記念画ではなく、徳川家康の神格化や江戸時代の政治思想を考えるための重要な作品として再評価されています。
今後の研究では、尾張徳川家や紀伊徳川家の伝来記録、東照宮に関する祭祀資料、江戸狩野派の肖像画との比較などが、作品の本来の意味を解明する手掛かりになると考えられます。
しかみ像に関するよくある質問(FAQ)
Q1:しかみ像は本当に徳川家康が描かせた肖像画ですか?
A1:家康自身が描かせたという伝承には、歴史的な裏付けがありません。徳川美術館の公式解説でも、三方ヶ原の敗戦を忘れないために制作させたという話には史料的根拠がないと説明されています。
Q2:しかみ像はいつ描かれたのですか?
A2:徳川美術館の現行作品情報では、江戸時代の17世紀とされています。三方ヶ原の戦いが起きた1572年に描かれたものではありません。
Q3:しかみ像は三方ヶ原の戦いと関係がないのですか?
A3:作品の制作を敗戦と直接結びつける史料は確認されていません。現在の三方ヶ原戦役画像という名称や自戒の逸話は、近代以降に形成されたとする研究があります。ただし、家康の肖像としての歴史的な価値まで否定されるわけではありません。
Q4:しかみ像はなぜ怖い顔をしているのですか?
A4:近年の有力な解釈では、敗戦の悔しさではなく、家康を武神として表現するための忿怒の表情と考えられています。半跏思惟像などの宗教美術との共通点も研究されています。
Q5:しかみ像はどこに所蔵されていますか?
A5:愛知県名古屋市の徳川美術館に所蔵されています。実物を見学したい場合は、常設展示の有無ではなく、来館予定日の展覧会・展示案内を確認する必要があります。
Q6:浜松市博物館でしかみ像の本物を見られますか?
A6:しかみ像の原作品は徳川美術館の所蔵です。浜松市博物館では2015年に肖像画をもとにした等身大の立体像が展示されました。原作品と再現模型は別のものです。
徳川家康のしかみ像は、三方ヶ原の戦いで武田信玄に敗れた家康が、自らの慢心を戒めるために描かせた肖像画として広く知られてきました。
しかし、徳川美術館の所蔵記録や原史彦氏の研究によって、この逸話には史料的な裏付けがなく、現在の伝承は昭和初期以降に形成された可能性が高いことが分かっています。
作品自体は江戸時代の17世紀に制作されたと評価され、尾張徳川家の蔵帳には「東照宮尊影」と記されています。また、1780年に従姫の持参品として尾張家に入り、1805年には御清御長持に収納されたという伝来経緯も明らかになっています。
加えて、武神としての家康を祀る礼拝像という解釈や、徳川政権の守護者としての家康を表現した可能性など、2024年までの研究によって新しい視点も提示されています。
しかみ像の魅力は、単に家康の失敗を描いた絵ということではありません。肖像画に込められた意味が時代とともに変化し、後世の人々によって新しい物語が加えられてきたことにもあります。
歴史を正しく理解するためには、伝説として親しまれてきた話と、実際の史料から確認できる事実を分けて考えることが大切です。しかみ像は、徳川家康という人物だけでなく、江戸時代の宗教観、政治思想、そして歴史の語り継がれ方まで考えさせる貴重な文化資料なのです。
主な参照資料:徳川美術館公式コレクション解説・原史彦「徳川家康三方ヶ原戦役画像の謎」(2016年)・井上亘「『顰面』の天下人―駿府と浜松の地政学」(2024年)・浜松経済新聞(2015年3月2日)。