1928年6月4日、中国東北部の奉天(現在の瀋陽)郊外で、満州を事実上支配していた軍閥指導者・張作霖の乗った特別列車が爆破された。張作霖は重傷を負い、その日のうちに死亡する。この事件が、歴史上「張作霖爆殺事件」、中国側では「皇姑屯事件」、日本では「満州某重大事件」と呼ばれる出来事である。
事件の実行には、日本の関東軍高級参謀だった河本大作が深く関与した。背景には、日本が満州で維持しようとしていた権益、張作霖との政治的対立、そして現地軍と東京の政府・陸軍中央部との方針の食い違いがあった。事件後には張学良が後継者となり、日本の対満州政策にも大きな誤算が生じている。
加えて、事件の調査と責任者の処分をめぐる田中義一首相の対応は、昭和天皇との政治的対立を招き、1929年7月2日の田中内閣総辞職へとつながった。事件は単なる要人暗殺ではなく、昭和初期の政党政治と軍部の関係を考えるうえで欠かせない転換点だった。
【事件の正体】満州某重大事件とは?張作霖爆殺事件との関係

満州某重大事件とは、1928年6月4日に発生した張作霖爆殺事件を指す呼称である。別々の事件を意味するわけではなく、同一の歴史的事件を異なる名称で表している。
満州某重大事件・張作霖爆殺事件・皇姑屯事件は同じ出来事事件の呼び方には、それぞれ歴史的な背景がある。
- 満州某重大事件:当時の日本国内で使われた婉曲的な呼称。
- 張作霖爆殺事件:被害者である張作霖と事件の内容を直接表した日本で一般的な名称。
- 皇姑屯事件:爆破現場に近い皇姑屯に由来する中国側の名称。
- 奉天事件:当時の奉天郊外で起きたことに由来する別称。
国立国会図書館の典拠情報でも、張作霖爆殺事件の関連名称として「奉天事件」が登録されている。歴史資料を調べる際には、これらの名称が同じ事件を指していることを押さえておく必要がある。
張作霖とは何者だったのか張作霖(ちょうさくりん)は、清朝末期から中華民国初期にかけて勢力を拡大した軍閥指導者である。中国東北部の奉天を拠点とし、奉天派を率いて東三省に強い影響力を持った。
当初、日本は張作霖の勢力を利用し、満州における自国の権益を維持・拡大しようとしていた。日本の軍事・経済的な影響力と張作霖の政治的・軍事的な利害が一致する場面もあったからだ。
しかし、張作霖は日本の意向に常に従う人物ではなかった。自らの勢力を拡大し、中国中央政界での地位を高めるにつれて、日本側の要求と衝突するようになった。
こうした関係の変化が、事件を理解するための重要な前提となる。
【発生の理由】なぜ関東軍は張作霖を排除しようとしたのか
満州某重大事件の背景には、日本の大陸政策と中国国内の政治情勢が複雑に絡み合っていた。単純に張作霖が日本に反抗したから暗殺された、という説明だけでは事件の本質を捉えられない。
日本が満州で守ろうとした権益当時の日本は、日露戦争後に獲得した関東州の租借権や南満州鉄道を中心とする経済的・軍事的権益を重視していた。
満州は日本にとって、鉄道輸送、資源開発、対ソ連防衛などの観点から重要な地域だった。日本政府や陸軍は、満州の政治情勢が日本の権益に不利な方向へ動くことを警戒していた。
一方、中国では国民革命軍を率いる蔣介石が北伐を進め、各地の軍閥勢力を打倒しながら中国統一を目指していた。張作霖の勢力も、この軍事的圧力を受けることになる。
張作霖と日本の関係が悪化した理由日本側が問題視したのは、張作霖が次第に独自の政治判断を強めたことだった。
日本は満州における鉄道、土地、鉱山、居住・営業などの権益問題を抱えていた。これらの問題を張作霖との交渉によって解決する構想があったものの、張作霖の政策は必ずしも日本の期待どおりには進まなかった。
防衛研究所戦史研究センターに掲載された白石博司の研究論文「張作霖爆殺事件―河本大作関東軍高級参謀の真意―」は、張作霖の対日姿勢や中国中央政界への進出が、日本側の従来の協力関係を揺るがした背景を分析している。
東方会議と関東軍の強硬姿勢1927年6月から7月にかけて、田中義一内閣のもとで東方会議が開催された。この会議では、中国政策や満蒙問題、日本の権益をどのように維持するかが議論された。
関東軍は、満州における日本の要求を受け入れない勢力に対して強硬な措置を取るべきだという立場を示していた。白石論文が分析する関東軍の意見具申にも、必要に応じて武力を用いる姿勢が表れている。
ただし、ここで区別すべきなのは、満州問題への強硬政策と、張作霖の暗殺という個別の作戦が同じものではないという点だ。日本政府が満州での権益を守ろうとしていたことと、田中内閣が暗殺を正式に命令したことは、証拠上も別の問題として検討しなければならない。
【事件発生の経緯】1928年6月4日、奉天郊外で何が起きたのか
事件の舞台は、中国東北部の奉天(現在の瀋陽)郊外にある皇姑屯付近だった。
1928年、蔣介石率いる国民革命軍の北伐によって、張作霖の軍事的立場は急速に悪化していた。北京を維持することが難しくなった張作霖は、勢力基盤である満州へ戻ることを決める。
満鉄線と京奉線の交差地点で列車が爆破張作霖の乗った特別列車は、北京から奉天へ向かっていた。
1928年6月4日午前5時23分ごろ、列車が奉天郊外の皇姑屯にある満鉄線と京奉線の交差地点を通過しようとした際、大規模な爆発が発生した。
防衛研究所の戦史研究資料によれば、爆発によって張作霖は重傷を負い、その日のうちに死亡した。事件では張作霖の側近であった呉俊陞も命を落としている。
この爆破は偶然の鉄道事故ではなく、関東軍の河本大作らによって計画された暗殺作戦だったとされる。
事件の時系列を整理| 時期・日時 | 出来事 | 歴史的な意味 |
|---|---|---|
| 1927年6〜7月 | 東方会議を開催 | 日本の対満蒙政策と関東軍の強硬姿勢が問題となる |
| 1928年春 | 北伐によって張作霖の勢力が後退 | 張作霖の北京撤退と満州帰還が現実的になる |
| 1928年5月下旬 | 河本大作らが暗殺計画を具体化 | 関東軍内部で行動方針が転換される |
| 1928年6月2日 | 張作霖が北京を離れる | 奉天への帰還が始まる |
| 1928年6月4日 | 皇姑屯付近で特別列車が爆破 | 張作霖爆殺事件が発生 |
| 1928年12月29日 | 東北易幟 | 張学良が南京国民政府への帰属を表明 |
| 1929年7月2日 | 田中義一内閣が総辞職 | 事件処理をめぐる政治的責任が表面化 |
この時系列で重要なのは、暗殺事件の発生と、その後の中国東北部の政治的変化、さらに日本国内の政権交代が連続して起きていることだ。
張作霖を排除すれば日本に有利な政治状況が生まれるという期待は、結果的に裏目に出ることになる。
【河本大作の関与と真相】実行の中心人物は誰だったのか
事件の中心人物として知られるのが、河本大作(こうもとだいさく)である。彼は関東軍の高級参謀を務めていた陸軍軍人で、満州における日本の権益と軍事的安全保障を重視する強硬派だった。
河本大作はなぜ暗殺を計画したのか河本の行動を理解するには、事件直前の関東軍の置かれた状況を見る必要がある。
張作霖の軍隊が北伐に敗れて満州へ戻れば、大規模な軍隊が東北地方に集中する可能性があった。関東軍は、満鉄沿線や日本人居留民の安全に対する懸念を強めていた。
当初、関東軍内部では満州へ戻る中国軍の武装解除などを含む軍事的措置が検討されていた。しかし、日本政府や陸軍中央部は、外国との関係や中国情勢への影響を考慮し、関東軍の積極的な行動を制約した。
白石博司の研究では、こうした状況のなかで河本が武装解除を中心とする構想から張作霖の暗殺へと方針を転換した経緯が検討されている。
つまり、河本の判断には、満州における軍事的緊張を緩和したいという意図と、張作霖の権力基盤を取り除き、日本にとって有利な状況をつくりたいという政治的思惑があったと考えられる。
河本大作の単独犯行だったのかこの問題は、事件研究における重要な論点である。
河本が暗殺計画の実行を主導したことは、防衛研究所の研究や戦後の供述資料などから強く裏付けられている。一方、河本の上官である関東軍司令官・村岡長太郎をはじめ、関東軍上層部がどこまで計画を把握し、どのような承認を与えていたのかについては、史料ごとの検討が必要となる。
神戸大学の学術論文目録には、研究者の服部龍二による「張作霖爆殺事件における関東軍上層部―『河本大作供述書』(1953年4月11日)を中心として」という研究が登録されている。この研究対象からも、河本個人の行動だけでなく、関東軍上層部との関係が研究上の焦点になってきたことが分かる。
満州全土の占領計画まで存在したのか従来の事件解説では、張作霖を殺害して満州に混乱を起こし、それを口実に日本軍が軍事行動を拡大する計画だったという説明が広く紹介されてきた。
これに対して白石論文は、河本の目的について異なる分析を提示している。
同論文は、河本が張作霖の殺害後に満州全土を軍事占領するための具体的な作戦準備を整えていたとは認めにくいと論じる。河本の行動は、満州占領を直ちに実現する包括的な軍事計画というより、張作霖を排除して関東軍が直面していた当面の危機を打開するための限定的な作戦だったという見方である。
これは、河本の暗殺への関与を否定する議論ではない。暗殺を実行した責任と、その先にどこまでの軍事・政治計画が存在したかを分けて考える研究上の論点である。
また、河本自身の戦後供述についても、本人の回想や説明と、当時の命令記録・日誌・外交文書を照合する必要がある。供述だけで組織全体の責任を確定することはできない。
【田中義一内閣の対応】なぜ事件が内閣総辞職につながったのか
満州某重大事件が日本国内で大きな政治問題になった理由は、関東軍による暗殺そのものだけではない。事件を把握した政府が、軍人の責任をどこまで追及するのかという問題に直面したからだ。
田中義一首相は事件をどう処理したのか田中義一は、1927年4月に成立した内閣の首相であり、陸軍大将や陸軍大臣を経験した軍人出身の政治家だった。首相就任後は外務大臣も兼ね、日本の対中国政策を主導していた。
田中内閣は、満州における日本の権益を守ることを重視しながらも、中国との外交関係や列強との協調にも配慮する必要があった。
ところが、張作霖爆殺事件によって、現地の関東軍が政府の外交方針や統制から逸脱する重大な問題が浮上した。
政府が暗殺に関与した軍人の責任を厳しく追及すれば、軍部との対立が避けられない。一方、責任を曖昧にすれば、政府が軍を統制できないことを国内外に示すことになる。
田中首相は、この難しい状況のなかで事件の調査と処分を進めることになった。
昭和天皇との対立と事件処理の問題事件後、田中首相は昭和天皇に対して調査結果を説明する立場にあった。
ところが、事件の責任者を厳しく処罰するという当初の説明と、最終的な処分方針との間に食い違いが生じた。陸軍内部の事情や軍紀の維持をめぐる問題もあり、事件の責任を明確にすることは容易ではなかった。
国立国会図書館の「史料にみる日本の近代」は、張作霖爆殺事件の処理をめぐって昭和天皇から叱責を受けた田中首相が辞意を固め、1929年7月2日に内閣が総辞職したと説明している。
この経緯から分かるのは、田中内閣の退陣が単なる外交政策の失敗ではなく、政府と軍部の関係、さらに天皇への説明責任をめぐる政治問題に発展したということだ。
1929年7月2日、田中義一内閣が総辞職田中内閣の総辞職は、事件発生から約1年後の1929年7月2日だった。
同日、後任の首相には立憲民政党総裁の浜口雄幸が指名され、浜口内閣が成立した。国立国会図書館所蔵の浜口雄幸の日記にも、同日午後1時に組閣の大命を受けたことが記されている。
田中義一は同年9月29日に死去した。国立国会図書館の近代日本人の肖像でも、張作霖爆殺事件の責任を取って総辞職した政治家として紹介されている。
事件処理をめぐる内閣の退陣は、軍部の独走を政府がどこまで抑えられるのかという問題を、政党政治の中心に押し上げた。
【事件後の影響】張学良の台頭と日本の対満州政策の誤算
張作霖の暗殺によって、日本が満州での影響力を拡大できたかというと、実際の結果は必ずしもそうではなかった。
むしろ、事件後の中国東北部では、日本側の予想とは異なる政治的変化が進んでいく。
張学良が父の後継者となる張作霖の死後、後継者となったのは長男の張学良(ちょうがくりょう)だった。
張学良は奉天派の軍事・政治的基盤を引き継ぎ、日本側が期待したような従属的な指導者にはならなかった。
白石論文の分析でも、張作霖暗殺後の後継者選定について、日本側の内部で意見が一致していたわけではなく、最終的には日本側の意図どおりに後継者を決めることができなかった点が指摘されている。
1928年12月29日の東北易幟張学良の政治的判断を象徴する出来事が、東北易幟である。
1928年12月29日、張学良は東北地方で従来の北洋政府の旗を下ろし、南京国民政府の国旗である青天白日満地紅旗を掲げた。これにより、張学良は南京国民政府への帰属を表明した。
これは蔣介石による北伐と中国統一の過程において重要な出来事だった。
日本は満州での影響力を確保するために張作霖を利用してきたが、その死後、張学良が南京政府との関係を強めたことで、対満州政策は新たな難題に直面する。
つまり、張作霖を排除すれば日本にとって有利な状況になるという期待は、結果的に実現しなかったのである。
満州事変との関係はどう考えるべきか張作霖爆殺事件は、1931年の満州事変を理解するうえでも重要な前史となる。
両事件には、関東軍が日本政府の外交方針や中央の統制と衝突しながら、現地で独自の軍事行動を進めたという共通する問題がある。
ただし、張作霖爆殺事件が直接的に満州事変を引き起こしたと説明するのは正確ではない。両事件の間には約3年の時間があり、中国国内の政治情勢、日本の経済・外交政策、陸軍内部の動向など、複数の要因が重なっている。
重要なのは、1928年の事件処理で軍人の責任追及が十分に実現しなかったことが、軍部の独自行動と政府統制の問題を考えるうえで重要な先例になった点である。
【よくある誤解を検証】満州某重大事件の真相を見極めるポイント
満州某重大事件には、事件の実行者、暗殺の目的、政府の責任など、複数の論点がある。歴史解説を読む際には、確認できる事実と研究者の解釈を区別することが大切だ。
誤解1:満州某重大事件と張作霖爆殺事件は別々の事件これは誤りである。両者は同じ1928年6月4日の事件を指す。日本国内で用いられた呼称と、事件の内容を直接表した名称の違いにすぎない。
誤解2:田中義一首相が暗殺を直接命令した田中内閣が満州の権益を重視する対外政策を進めていたことと、田中首相が張作霖暗殺を直接命令したことは別の問題である。
事件の実行を主導した人物として河本大作が挙げられる一方、上級指揮官や陸軍中央部の関与、政府の事前認識については、個々の史料に基づく検証が必要となる。
誤解3:暗殺後、日本はすぐに満州全土を占領したこれも事実とは異なる。張作霖の死後、張学良が後継者となり、1928年12月には東北易幟が実現した。日本の影響力が一方的に拡大したわけではなく、むしろ外交上の困難が増している。
誤解4:事件の目的は研究者の間で完全に確定している暗殺の実行と河本大作の関与は重要な研究成果によって裏付けられているが、暗殺の最終目的や関東軍上層部の責任範囲については、研究上の議論が存在する。
特に、満州全土の占領を目指した計画の一環だったのか、それとも当面の軍事的危機を回避するための限定的な暗殺だったのかは、研究者によって評価が異なる。
事件を深く理解するには、河本の供述、関東軍の作戦関係資料、当時の外交文書、田中内閣の対応を相互に照らし合わせることが欠かせない。
満州某重大事件に関するよくある質問(FAQ)
Q1:満州某重大事件とは簡単にいうと何ですか?
A1:1928年6月4日に中国の奉天郊外で発生した張作霖爆殺事件のことです。張作霖が乗っていた特別列車が爆破され、張作霖はその日のうちに死亡しました。
Q2:張作霖を爆殺したのは誰ですか?
A2:関東軍高級参謀の河本大作が計画と実行を主導したとされています。ただし、関東軍上層部の関与や責任の範囲については、供述資料や軍関係文書をもとに研究が続けられてきました。
Q3:張作霖爆殺事件が起きた理由は何ですか?
A3:日本の満州権益をめぐる対立、張作霖の独自路線、北伐による軍事情勢の悪化、関東軍の強硬姿勢などが背景にあります。特に、河本らが張作霖を排除することで現地の軍事的危機を打開しようとした点が重要です。
Q4:事件後、張作霖の後継者になったのは誰ですか?
A4:長男の張学良です。張学良は父の勢力基盤を引き継ぎ、1928年12月29日に東北易幟を実施して南京国民政府への帰属を表明しました。
Q5:田中義一内閣はなぜ退陣したのですか?
A5:張作霖爆殺事件の調査と関係者の処分をめぐる対応が問題となり、昭和天皇から叱責を受けたためです。田中内閣は1929年7月2日に総辞職しました。
Q6:満州某重大事件と満州事変にはどのような関係がありますか?
A6:直接同じ事件ではありませんが、いずれも関東軍の独自行動と政府による軍部統制の問題を考えるうえで重要です。張作霖爆殺事件は1931年の満州事変に先立つ、昭和初期の軍部の行動を理解するための重要な歴史的事例です。
満州某重大事件は、1928年6月4日に発生した張作霖爆殺事件であり、日本の関東軍が中国東北部の政治情勢に介入した重大事件だった。
事件の背景には、日本の満州権益をめぐる政策、張作霖との関係悪化、北伐による中国の政治的変動、関東軍の強硬姿勢があった。実行の中心人物は河本大作であり、その行動と関東軍上層部の責任をどう評価するかは、現在に至るまで歴史研究上の重要なテーマとなっている。
また、事件は田中義一内閣の総辞職につながり、日本の政党政治と軍部の関係にも深刻な影響を及ぼした。張作霖の死後に張学良が東北易幟を実施したことは、日本側の政策が必ずしも思惑どおりに進まなかったことを示している。
【プロの結論】
この事件を理解するために最も重要なのは、暗殺を実行した人物、軍組織の責任、政府の政治的責任を分けて考えることだ。
河本大作の実行責任だけを取り上げても、事件の全体像は見えてこない。なぜ関東軍が独自の判断で行動できたのか、なぜ政府は軍人の責任を明確にできなかったのか、そして事件後に中国側の政治情勢がどのように変化したのかまで考察する必要がある。
張作霖爆殺事件の歴史的な重みは、要人暗殺そのものにとどまらない。軍事組織が政府の統制を離れて政治を動かそうとしたとき、外交、国家の信用、国内政治にどれほど大きな影響が及ぶのかを示した点にある。
1928年の満州某重大事件は、1931年の満州事変へと続く昭和初期の歴史を考えるうえで、決して見過ごせない重要な転換点なのである。
主な史料・研究上の参照先
- 防衛研究所戦史研究センター・白石博司「張作霖爆殺事件―河本大作関東軍高級参謀の真意―」
- 国立国会図書館「史料にみる日本の近代―浜口内閣の成立」
- 国立国会図書館「近代日本人の肖像―田中義一」
- 日本大学大学院・佐藤勝矢「張作霖爆殺事件における野党民政党の対応」
- 神戸大学学術成果リポジトリ・服部龍二「張作霖爆殺事件における関東軍上層部」