近衛十四郎(このえ・じゅうしろう)は、戦前から戦後にかけて日本映画界で活躍し、豪快で迫力のある殺陣によって時代劇ファンを魅了した剣戟スターである。映画『柳生武芸帳』シリーズの柳生十兵衛役、テレビ時代劇『素浪人月影兵庫』の月影兵庫役などで知られ、映画とテレビの両方で存在感を示した。新潟県長岡市に生まれ、本名は目黒寅彦。1977年5月24日に亡くなった。
また、俳優・松方弘樹と目黒祐樹の父親としても知られる。妻は元女優の水川八重子で、夫婦ともに映画界で活動した経歴を持つ。一方、プロフィールによって生年が1914年と1916年に分かれるなど、基本情報にも資料間の違いが残っている。2026年現在、近衛十四郎の人物像を理解するには、出演作品だけでなく、映画からテレビへと活躍の場を広げた経歴や家族との共演にも目を向けたい。
【近衛十四郎とはどんな時代劇俳優だったのか】基本プロフィールと人物像

近衛十四郎は、単に時代劇に出演した俳優ではない。剣戟映画のスターとして映画界で地位を築き、テレビ時代劇の普及期には家庭で親しまれる人気俳優へと活躍の幅を広げた人物である。
人物事典や映画資料に記載された基本プロフィールは次のとおり。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 芸名 | 近衛十四郎 |
| 読み方 | このえ・じゅうしろう |
| 本名 | 目黒寅彦 |
| 旧名 | 目黒寅一 |
| 出身地 | 新潟県長岡市 |
| 学歴 | 長岡工業学校卒 |
| 生年 | 1914年説・1916年説 |
| 没年月日 | 1977年5月24日 |
| 妻 | 水川八重子 |
| 長男 | 松方弘樹 |
| 次男 | 目黒祐樹 |
| 代表的な役柄 | 柳生十兵衛、月影兵庫、花山大吉 |
これらの情報は、日外アソシエーツの『新撰 芸能人物事典 明治~平成』や『20世紀日本人名事典』、講談社の『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』などに記載されている。
特に注目したいのが、映画俳優としての評価である。
近衛の魅力は、剣を構えたときの迫力と、敵と対峙する場面での力強い存在感にあった。華麗な動きだけで見せるのではなく、相手との距離感や剣の重みを感じさせる殺陣が特徴だった。
東映の創立70周年特別寄稿『東映行進曲』でも、近衛の殺陣は、それまでの東映時代劇に見られた舞うような立ち回りとは異なる、リアルで力強い魅力を持っていたと紹介されている。
この評価は、後年の作品を見ても理解しやすい。特に『忍者狩り』『十兵衛暗殺剣』では、剣豪としての存在感が物語の中心を支えている。
近衛十四郎を知るうえで重要なのは、映画の剣戟スターとテレビの親しみやすい素浪人という、二つの顔を持っていた点だ。
【新潟県長岡市での生い立ちから映画デビューまで】波乱の俳優人生
長岡で生まれ、俳優を目指して映画界へ近衛十四郎は新潟県長岡市の出身である。本名は目黒寅彦。出生時の名前は目黒寅一だったとする人物年表も残されている。
長岡工業学校を卒業した後、鉄道関係の仕事に就いたという経歴が伝えられている。しかし、時代劇映画への憧れを捨てきれず、俳優の道を志した。
専門の人物年表によると、1932年には奈良県のあやめ池にあった市川右太衛門プロダクションに研究生として入り、当初は長岡秀樹という芸名を使用していた。
その後、日活京都に移籍。映画界では野球の腕前も知られていたとされるが、当初は大きな役に恵まれず、端役を経験した。
転機となったのは1934年である。
映画監督の白井戦太郎に認められ、近衛十四郎の芸名で亜細亜映画の作品に出演することになった。
映画デビュー作は『叫ぶ荒神山』作品では吉良の仁吉を演じたとされる。亜細亜映画の第一回作品として制作された映画であり、近衛にとって本格的な映画スター人生の出発点となった。
その後、白井戦太郎とともに大都映画へ移籍。『銀平くづれ格子』『疾風蜥蜴鞘』三部作などの時代劇で主演を重ね、若い剣戟スターとして活躍した。
1939年には『真田十勇士』前後編などに出演し、時代劇俳優としての知名度を高めていく。
戦争による活動休止と映画界への復帰近衛のキャリアを語るうえで、戦争による中断は欠かせない。
1936年に入営し、除隊後は大都映画に復帰した。しかし、1942年の戦時映画会社統合によって大都映画が大映に統合されると、近衛は映画会社に残るのではなく、妻の水川八重子と一座を組んで地方巡業を始めた。
さらに戦時中には再び召集を受け、終戦後に復員してからも舞台活動を続けた。
映画界への本格復帰は1952年。東映と連合映画の提携作品『遊侠一代』などに出演した。
1953年には松竹に入社し、脇役から再出発。1955年の『元禄名槍伝 豪快一代男』では、戦後復帰後の主演スターとしての地位を確立した。
この時期の近衛は、若いころのスターとしての立場を取り戻すだけでなく、経験を重ねた剣劇俳優として新たな評価を得ていた。
以下に、生涯の主な転換点を整理する。
| 年代 | 主な出来事 | 作品・関係者 |
|---|---|---|
| 1914年または1916年 | 新潟県長岡市に生まれる | 目黒寅一、のち寅彦 |
| 1932年 | 市川右太衛門プロダクションに入る | 長岡秀樹名義 |
| 1934年 | 映画デビュー | 『叫ぶ荒神山』 |
| 1935年 | 大都映画へ移籍 | 『銀平くづれ格子』など |
| 1941年 | 水川八重子と結婚 | 夫婦で映画活動 |
| 1942年以降 | 映画界を離れ、舞台巡業へ | 一座を結成 |
| 1952年 | 戦後の映画界に復帰 | 『遊侠一代』 |
| 1953~1955年 | 松竹で再出発し主演スターへ | 『元禄名槍伝 豪快一代男』 |
| 1960年 | 東映へ移籍 | 『砂絵呪縛』 |
| 1961~1964年 | 柳生十兵衛シリーズで活躍 | 『柳生武芸帳』など |
| 1965年 | テレビ時代劇で人気を獲得 | 『素浪人月影兵庫』 |
| 1973~1974年 | 最後の主演テレビシリーズ | 『いただき勘兵衛旅を行く』 |
| 1977年 | 死去 | 5月24日 |
この経歴は、コトバンク掲載の人物事典、東映の創立70周年特別寄稿、ラピュタ阿佐ヶ谷の近衛十四郎特集などをもとに整理したものだ。
【近衛十四郎の代表作映画一覧】『柳生武芸帳』と殺陣の評判
近衛十四郎の代表作を語るなら、映画時代の剣戟作品を外すことはできない。
特に東映移籍後は柳生十兵衛を演じる機会が増え、剣豪役のイメージを決定づけた。
代表作として押さえたい映画主な出演作品を年代別に紹介する。
戦前の代表作
- 『叫ぶ荒神山』(1934年)
- 『銀平くづれ格子』(1935年)
- 『疾風蜥蜴鞘』三部作(1935~1936年)
- 『真田十勇士』前後編(1939年)
- 『忍術千一夜』(1939年)
- 『宮本武蔵決戦般若坂』(1942年)
戦後の松竹時代
- 『遊侠一代』(1952年)
- 『花の生涯』(1953年)
- 『素浪人日和』(1954年)
- 『忠臣蔵 花の巻・雪の巻』(1954年)
- 『元禄名槍伝 豪快一代男』(1955年)
- 『紀州の暴れん坊』(1956年)
- 『浪人街』(1957年)
- 『江戸群盗伝』(1958年)
- 『女ざむらい只今参上』(1958年)
東映時代の代表作
- 『柳生武芸帳』(1961年)
- 『柳生武芸帳 独眼一刀流』(1962年)
- 『柳生武芸帳 剣豪乱れ雲』(1963年)
- 『忍者狩り』(1964年)
- 『十兵衛暗殺剣』(1964年)
- 『車夫遊侠伝 喧嘩辰』(1964年)
- 『座頭市血煙り街道』(1967年)
- 『暴力団再武装』(1971年)
映画データベースやラピュタ阿佐ヶ谷の特集上映資料でも、これらの作品が近衛の出演作として確認できる。
『柳生武芸帳』で柳生十兵衛が当たり役に原作は五味康祐の小説。将軍家に伝わる武芸の秘伝書をめぐって、さまざまな武芸者や権力者が争う物語だ。
近衛が演じる十兵衛は、剣の腕だけでなく、相手の動きを見極める落ち着きや、敵に立ち向かう堂々とした姿勢が印象的だった。
シリーズは1961年の『柳生武芸帳』から1964年の『十兵衛暗殺剣』まで続き、全9作にわたって近衛が主演を務めた。
特に注目したいのが、1962年以降の作品で長男・松方弘樹との共演が実現していることだ。
ラピュタ阿佐ヶ谷の作品解説では、『柳生武芸帳 独眼一刀流』などにおける親子共演も紹介されている。
『十兵衛暗殺剣』に見る殺陣の魅力シリーズの集大成として知られるのが、1964年公開の『十兵衛暗殺剣』である。
柳生新陰流に挑戦する剣客・幕屋大休を大友柳太朗が演じ、近衛の柳生十兵衛と激突する。
国立映画アーカイブは、この作品における近衛と大友柳太朗の琵琶湖上での一騎打ちを、時代劇映画史でも屈指の迫力を持つ場面として紹介している。
ここに近衛の殺陣の特徴が表れている。
それは、単純に剣を速く振ることではない。相手の攻撃を受け止め、間合いを詰め、決定的な一撃につなげるという、重量感のある立ち回りである。
東映の記念企画記事でも、近衛の殺陣は従来の舞うような剣戟とは異なるリアルな魅力を生み出したと評価されている。
また、映画研究誌『映像学』に掲載された石塚洋史の論文「東映集団時代劇と近衛十四郎」(2004年)では、東映時代劇の変化と近衛の役割が分析されている。
同論文は、1960年代の時代劇映画における集団戦や、近衛が主演した『忍者狩り』『十兵衛暗殺剣』の決闘場面に注目している。
近衛の殺陣が高く評価される理由は、こうした作品の演出や映画史上の変化と合わせて考えると理解しやすい。
【素浪人月影兵庫からいただき勘兵衛まで】テレビ時代劇での活躍
映画で剣戟スターとして地位を確立した近衛十四郎は、テレビ時代劇でも大きな成功を収めた。
その代表作が、1965年に始まった『素浪人月影兵庫』である。
『素浪人月影兵庫』で品川隆二と名コンビに『素浪人月影兵庫』は、1965年10月19日から1968年12月28日まで放送されたNETテレビ(現在のテレビ朝日)の時代劇である。
近衛が演じたのは、剣の腕に優れた素浪人・月影兵庫。
そして、旅の相棒となる焼津の半次を演じたのが品川隆二だった。
作品の基本構造は、二人が諸国を旅する途中でさまざまな事件に遭遇し、悪人を退治して弱い立場の人々を助けるというもの。
この作品の魅力は、近衛の迫力ある剣戟だけではなかった。
月影兵庫の落ち着いた強さと、品川隆二演じる焼津の半次の軽妙な振る舞いが組み合わさることで、硬派な時代劇と喜劇的な道中物語が両立したのである。
東映の創立70周年特別寄稿によれば、シリーズは全130話、最高視聴率35.7%を記録する大ヒットとなった。
当時のテレビ時代劇として、非常に高い人気を獲得したことが分かる。
放送ライブラリーにも1965年12月放送の実際の番組が登録されており、近衛十四郎と品川隆二の出演、南條範夫の原作、東映の制作などを確認できる。
『素浪人花山大吉』でも人気を継続1969年には、近衛主演の『素浪人花山大吉』がスタートした。
前作の焼津の半次役・品川隆二とのコンビを引き継ぎながら、主人公は花山大吉へと変更された。
この作品も人気を集め、1969年1月から1970年12月まで全104話が放送された。
『月影兵庫』と『花山大吉』の魅力は、強い主人公が悪を倒すという単純な構図だけではない。
旅先での人間関係や、相棒との掛け合い、困っている人を放っておけない主人公の人情味が、幅広い視聴者に受け入れられた。
しかし、このころ近衛は持病の悪化に苦しんでいた。
東映の記念記事によると、体調悪化によるドクターストップで『花山大吉』は終了。近衛は入院と休養を余儀なくされた。
最後の主演テレビ作品は『いただき勘兵衛旅を行く』休養後の1973年、近衛は『素浪人天下太平』でテレビシリーズに復帰する。
そして同年10月、次の主演作として始まったのが『いただき勘兵衛旅を行く』だった。
放送期間は1973年10月から1974年3月。全24話で、NETテレビと東映が制作した。
主人公の月田勘兵衛を演じた近衛は、大酒飲みで喧嘩好きという一面を持ちながら、実は幕府の隠密巡察使という人物を演じている。
この作品には次男の目黒祐樹も出演しており、父と息子がテレビ時代劇で共演する機会にもなった。
日外アソシエーツの『20世紀日本人名事典』も、この作品を近衛の最後の主演作品として記載している。
ここで区別しておきたいのは、最後の主演テレビ作品と最後の映画出演作は異なるという点だ。
近衛の最後の映画出演作として確認できるのは、1971年公開の『暴力団再武装』である。
【妻・水川八重子と松方弘樹・目黒祐樹】近衛十四郎の家族関係
近衛十四郎の家族については、妻の水川八重子と二人の息子である松方弘樹、目黒祐樹との関係がよく知られている。
いずれも芸能界に関係する人物であり、映画やテレビで親子共演も実現している。
妻は女優の水川八重子水川八重子は、昭和初期から戦後にかけて活動した女優である。
本名は角西ヤエ子。1918年2月15日生まれで、1976年7月25日に亡くなった。
日外アソシエーツの人物事典によると、1935年に大都映画へ入社し、『御存知猿飛佐助』で映画デビュー。その後、時代劇の相手役などで活躍した。
近衛とは大都映画での共演をきっかけに親しくなり、1941年4月15日に結婚したとする専門年表が残されている。
1942年に大都映画が戦時統合されると、夫婦で一座を組み、全国各地を巡業した。
近衛が映画界へ復帰した後、水川は芸能活動から退いている。
1976年に水川が亡くなり、その翌年の1977年に近衛も亡くなった。
長男は俳優・松方弘樹長男の松方弘樹は、1942年7月23日生まれの俳優で、本名は目黒浩樹(めぐろ・こうじゅ)。
日本コロムビアの公式プロフィールでも、父が近衛十四郎、母が水川八重子であることが明記されている。
松方は1960年、父が所属していた東映に入社し、『十七歳の逆襲・暴力をぶっ潰せ』で映画デビューした。
その後、『赤穂浪士』『瞼の母』『次郎長三国志』などの時代劇で人気を獲得。さらに『仁義なき戦い』シリーズなど、幅広いジャンルの作品で活躍した。
父との共演で特に注目されるのが『柳生武芸帳』シリーズである。
近衛が柳生十兵衛を演じる作品に松方も出演し、実際の父子が映画の中でも共演することになった。
ただし、二人が常に同じ役柄や立場で出演したわけではなく、作品ごとに役柄や物語上の関係は異なる。
次男は俳優・目黒祐樹次男の目黒祐樹も俳優として活動している。
1947年生まれで、兄の松方弘樹とは5歳ほど年齢が離れている。
目黒は映画『里見八犬伝』などでも知られ、テレビや舞台でも活動してきた。
父・近衛との関係を示すエピソードとして、1973年の『いただき勘兵衛旅を行く』への出演が挙げられる。
また、2017年にNHKで放送された『ファミリーヒストリー 松方弘樹・目黒祐樹~芸能一家の歳月~』では、近衛と水川の人生や新潟県長岡市にゆかりのある父方のルーツが取り上げられた。
スポニチの報道によれば、番組には目黒祐樹が出演し、松方弘樹も兄弟そろって参加する予定だったが、体調の問題から実現しなかった。
この報道からも、近衛十四郎が残した家族の歴史が、次世代の俳優たちにも受け継がれていることが分かる。
【近衛十四郎の生年は1914年か1916年か】生年月日の資料差を検証
近衛十四郎のプロフィールを調べると、しばしば疑問になるのが生年の違いである。
1914年生まれとする資料がある一方、1916年生まれとする資料も存在する。
単純な入力ミスとして片付けられないのは、映画関係の資料や人物事典でも記載が一致していないためだ。
1914年4月10日とする資料1914年4月10日説を掲載しているのが、ラピュタ阿佐ヶ谷の2010年の特集上映「剣聖 近衛十四郎」である。
同館の人物紹介には、1914年4月10日に新潟県長岡市で生まれたと記されている。
近衛十四郎の専門ファンサイトに掲載された人物年表も、1914年4月10日生まれとしている。
この年表は、長岡市が発行した郷土資料『ふるさと 長岡の人びと』や、近衛に関する書籍、映画資料などを参考文献として挙げている。
1916年4月10日とする資料一方、1916年説を採用しているのは、次のような人物・映画情報資料である。
- コトバンク掲載の講談社『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』
- allcinemaの人物プロフィール
- WEBザテレビジョンの人物プロフィール
- ファッションプレスの俳優プロフィール
これらには1916年4月10日と記載されている。
加えて、コトバンク内の日外アソシエーツ『新撰 芸能人物事典 明治~平成』と『20世紀日本人名事典』では、1916年4月1日と記載されている。
つまり、生年だけでなく、1916年説の中でも誕生日の記載に違いがある。
なぜ享年にも違いが生じるのか没年月日は1977年5月24日で、主要な人物事典や映画データベースでおおむね一致している。
生年によって、亡くなったときの年齢は次のように変わる。
| 生年の記載 | 没年月日 | 計算上の満年齢 |
|---|---|---|
| 1914年4月10日 | 1977年5月24日 | 63歳 |
| 1916年4月10日 | 1977年5月24日 | 61歳 |
| 1916年4月1日 | 1977年5月24日 | 61歳 |
そのため、近衛十四郎の享年についても61歳と63歳の両方が見られる。
2026年時点で公開されている主要な資料を比較すると、1916年説を掲載する映画・人物データベースが複数ある一方、映画館の特集資料や専門年表には1914年説が残っている。
現状では、生年を一つに断定するよりも、1977年5月24日没という共通情報と、1914年説・1916年説の両方を区別して理解することが適切である。
【プロの結論】近衛十四郎を知るなら何から見るべきか近衛十四郎の俳優としての魅力を理解するには、作品を大きく二つの方向から見ると分かりやすい。
一つ目は、映画における剣戟俳優としての近衛である。
『柳生武芸帳』や『十兵衛暗殺剣』を見ると、近衛がなぜ剣豪スターとして評価されたのかが分かる。特に大友柳太朗との対決は、剣戟映画の迫力を味わいたい人に適している。
二つ目は、テレビ時代劇における親しみやすい近衛である。
『素浪人月影兵庫』や『素浪人花山大吉』では、剣の強さだけでなく、品川隆二との掛け合いや人情味のある演技を楽しめる。
加えて、家族との関係に興味がある人には『いただき勘兵衛旅を行く』も注目したい。
この作品では次男の目黒祐樹と共演しており、映画界で活躍した父親と、俳優として歩み始めた次世代との関係を作品から感じ取ることができる。
近衛十四郎の評価を殺陣の巧さだけに限定するのは惜しい。映画スターとしての迫力、テレビ俳優としての親しみやすさ、そして戦争による活動中断を経て再び第一線へ戻った経歴まで含めて、その魅力を捉えるべきだ。
【近衛十四郎に関するよくある質問(FAQ)】
Q1:近衛十四郎の本名は何ですか?
A1:本名は目黒寅彦(めぐろ・とらひこ)です。出生時の名前は目黒寅一で、後に寅彦へ改名したとする資料があります。
Q2:近衛十四郎の妻は誰ですか?
A2:妻は元女優の水川八重子です。1941年に結婚し、映画界で活動した後、夫婦で一座を組んで地方巡業を行いました。
Q3:松方弘樹と目黒祐樹は近衛十四郎の息子ですか?
A3:はい。松方弘樹が長男、目黒祐樹が次男です。二人とも俳優として活動し、父親との映画・テレビでの共演歴もあります。
Q4:近衛十四郎の代表作は何ですか?
A4:映画では『柳生武芸帳』シリーズ、『忍者狩り』『十兵衛暗殺剣』など、テレビでは『素浪人月影兵庫』『素浪人花山大吉』などが代表作です。
Q5:近衛十四郎の最後の主演作品は何ですか?
A5:最後の主演テレビ作品は、1973年10月から1974年3月まで放送された『いただき勘兵衛旅を行く』です。最後の映画出演作は1971年公開の『暴力団再武装』です。
Q6:近衛十四郎は何年生まれですか?
A6:1914年説と1916年説があります。映画・人物データベースには1916年4月10日、ラピュタ阿佐ヶ谷の特集資料などには1914年4月10日と記載されています。没年月日は1977年5月24日です。
近衛十四郎は、新潟県長岡市から映画界へ進み、戦前の大都映画、戦後の松竹、そして東映へと活躍の場を広げた時代劇俳優だった。
映画『柳生武芸帳』シリーズでは柳生十兵衛を演じ、豪快でリアルな殺陣によって剣戟スターとしての評価を確立。テレビでは『素浪人月影兵庫』『素浪人花山大吉』などに主演し、品川隆二との名コンビで多くの視聴者を楽しませた。
妻の水川八重子、長男の松方弘樹、次男の目黒祐樹との家族関係も、近衛の人生を語るうえで欠かせない要素である。
生年については1914年説と1916年説が残っているが、1977年5月24日に亡くなったことは広く確認されている。
2026年に改めて近衛十四郎の作品を振り返ると、映画で磨いた剣技をテレビの娯楽時代劇へとつなぎ、時代劇というジャンルの魅力を幅広い世代に届けた俳優だったことが見えてくる。
その代表作は、今も昭和の時代劇文化を知るための重要な作品群として位置づけられている。