司忍(つかさ・しのぶ)は、六代目山口組の組長として知られる人物で、本名は篠田建市(しのだ・けんいち)という。若い頃の写真や経歴に関心が集まる背景には、大分県で生まれた青年が名古屋へ移り、三代目山口組傘下の弘田組、弘道会を経て、2005年に山口組の六代目組長へ就任したという経歴がある。
1942年1月25日生まれで、2026年11月現在は84歳。若い頃の写真については、端正な顔立ちや独特の風貌が注目される一方、インターネット上で紹介される画像すべてに撮影年月日や原典が付いているわけではない。写真の印象と、報道資料で確認できる人物の経歴は分けて捉える必要がある。
- 本名・年齢・出身地: 司忍の本名は篠田建市。1942年1月25日生まれで、大分県大分市出身とされる。
- 若い頃の経歴: 1962年に三代目山口組系の弘田組へ加入。その後、司興業を率い、1984年に弘道会を結成した。
- 2026年現在: 六代目山口組の組長として警察資料に篠田建市の名前が記載されている。84歳を迎えた現在も組織をめぐる動向が報じられている。
【司忍の若い頃とは?】本名・生年月日・年齢・出身地を整理

司忍という名前は、一般的な本名ではなく、暴力団社会で使用される通称・渡世名である。
本名は篠田建市(しのだ・けんいち)。報道機関による人物紹介でも、「六代目山口組組長、司忍こと篠田建市」という形で紹介されている。
基本プロフィールは次のとおり。
- 通称:司忍
- 本名:篠田建市
- 読み方:しのだ・けんいち
- 生年月日:1942年1月25日
- 年齢:84歳(2026年11月現在)
- 出身地:大分県大分市
- 学歴:大分県立水産高等学校卒業とする人物紹介がある
- 主な経歴:弘田組、司興業、弘道会、六代目山口組
なお、本人の詳細な生い立ちや私生活について、一般向けに公開された一次資料は限られている。
そのため、プロフィールに記載される情報と、新聞・週刊誌などで確認できる組織上の経歴を区別して読むことが大切だ。
2026年現在の年齢は84歳1942年1月25日生まれという情報に基づくと、2026年1月25日に84歳となった。
講談社のFRIDAYデジタルは2026年2月10日、司忍の84歳の誕生日に関する記事を掲載している。
同記事では、1月25日に愛知県瀬戸市で誕生日を祝う行事が開かれ、髙山清司相談役や竹内照明若頭らの姿もあったと報じられた。
この報道は、2026年現在も司忍が組織の中心人物として扱われていることを示す具体的な材料となっている。
【大分での生い立ちと学歴】水産高校を卒業して名古屋へ
出身地は大分県大分市司忍は1942年、大分県大分市に生まれたとされる。
現在の名古屋を拠点とする弘道会との関係から、名古屋出身と誤解されることもあるが、人物紹介で伝えられている出身地は大分県である。
生まれ育った大分から大阪を経て名古屋へ移ったという経歴が紹介されており、若い頃の人生には、地方から都市部へ生活の拠点を移した時期があった。
ただし、幼少期の家庭環境や親族関係、当時の生活状況などについては、信頼できる公開資料が乏しい。
学歴は大分県立水産高等学校とされる司忍の学歴として紹介されるのは、大分県立水産高等学校である。
この学校は、大分県臼杵市にあった水産系の学校で、現在の大分県立海洋科学高等学校につながる学校の系譜に位置づけられる。
学校公式サイトによると、前身は1944年に発足した大分県立臼杵農水産学校。その後、複数回の名称変更や学校再編を経て現在に至っている。
そのため、古い人物紹介に記載される学校名と、現在の学校名が一致しないのは不自然なことではない。
なお、司忍本人の卒業証明書や学校が公表した卒業者名簿などは確認できず、学歴は人物紹介に記載された情報として扱うのが適切だ。
大阪を経て名古屋へ移った若い頃高校卒業後の司忍については、大阪を経由して名古屋へ移ったという経歴が紹介されている。
そして1962年、20歳のときに三代目山口組系の鈴木組内・弘田組へ加入したとされる。
この時期の弘田組は、名古屋を中心とした中京地区に関係する山口組傘下の組織だった。
司忍のその後の経歴を理解するうえで重要なのは、最初から山口組全体の幹部だったわけではなく、傘下組織の一員として活動を始めたという点である。
【1962年から2005年まで】弘田組・司興業・弘道会を経た経歴
司忍の若い頃から六代目山口組組長への就任までを理解するには、組織の変遷を時系列で追う必要がある。
1962年:三代目山口組系弘田組に加入1962年、司忍は三代目山口組系鈴木組内の弘田組に加入したとされる。
弘田組の組長は弘田武志だった。
この時期の司忍は、後に全国的な知名度を得る六代目組長ではなく、上部組織の下にある一組織の構成員だった。
その後、弘田組内で地位を上げ、司興業を率いるようになったと伝えられている。
司興業を率いた弘田組時代司興業は、司忍が自ら率いた組織として知られる。
弘田組の内部で活動基盤を築き、組織内で幹部としての立場を強めていった。
当時の中京地区では、山口組系組織とほかの暴力団組織との対立もあり、警察による取り締まりも強化されていた。
こうした時代背景の中で、弘田組の存在感が高まっていった。
1984年:弘道会を結成大きな転換点となったのが1984年である。
弘田武志の引退に伴い、司忍は弘田組の関係者らを基盤として弘道会を結成した。
弘道会は名古屋を拠点とする組織であり、司忍は初代会長に就任した。
この出来事によって、司忍は山口組の傘下組織を率いる立場となり、山口組本家の直系組長へと進んだ。
1989年:五代目山口組で若頭補佐に就任1989年、渡辺芳則が五代目山口組組長に就任した。
司忍も新体制で若頭補佐を務めるようになり、山口組の執行部に入った。
ただし、この時点では司忍が組織内で圧倒的な立場を持っていたわけではない。
文春オンラインの2020年の組織史に関する取材記事では、当時の司忍は、ほかの有力幹部と比べて若手の立場だったと説明されている。
2005年:六代目山口組組長に就任2005年は司忍の経歴における最大の転換点となった。
同年5月には五代目山口組の若頭に就任。その後、渡辺芳則の引退に伴い後継者として選ばれた。
2005年8月27日、正式に六代目山口組組長へ就任した。
この人事で注目されたのが、司忍と髙山清司の関係である。
司忍は弘道会の会長職を髙山清司に引き継がせ、自らは六代目山口組組長となった。髙山は同年8月に山口組の若頭へ就任している。
こうして弘道会出身者が組長と若頭を占める体制が形成された。
【人物・組織の関係図】弘田武志・髙山清司・渡辺芳則との関係
司忍の経歴を調べる際には、本人だけでなく、当時の山口組を構成していた人物や組織との関係を理解することが重要だ。
| 人物・組織 | 司忍との関係 | 主な出来事・役割 |
|---|---|---|
| 弘田武志 | 弘田組の組長 | 司忍が加入した組織のトップ。1984年の引退が弘道会結成の転機となった |
| 司興業 | 司忍が率いた組織 | 弘田組時代に自らの組織として活動 |
| 弘道会 | 司忍が初代会長を務めた組織 | 1984年に結成。名古屋を拠点に発展 |
| 髙山清司 | 弘道会の後継会長、山口組の若頭 | 2005年に弘道会会長を引き継ぎ、同年に山口組若頭へ就任 |
| 渡辺芳則 | 五代目山口組組長 | 1989年に五代目へ就任。2005年に引退し、司忍が後継者となった |
髙山清司は、司忍の組織運営を理解するうえで欠かせない人物である。
2005年、司忍が六代目山口組組長に就任した際、髙山は二代目弘道会会長となり、山口組の若頭にも就任した。
文春オンラインの組織分析記事では、この人事によって弘道会出身者が山口組の上層部を占める体制が強まったと分析されている。
2025年6月まで髙山は若頭を務め、その後は相談役として報道されている。2026年2月のFRIDAYデジタルの記事でも、髙山清司相談役として紹介されている。
したがって、両者の関係は単なる知人関係ではなく、弘道会と六代目山口組の組織運営における継承関係として見ることができる。
渡辺芳則との関係は後継者という位置づけ渡辺芳則は1989年に五代目山口組組長へ就任した人物である。
司忍は渡辺体制の下で若頭補佐などを務め、2005年に六代目組長を引き継いだ。
ここで重要なのは、渡辺と司の個人的な親密さを示す情報と、組織上の継承関係は別物だという点である。
報道で確認できるのは、五代目から六代目への組長交代と、それに伴う組織人事である。
【司忍の若い頃の写真の真相】公開画像は本当に本人なのか
「司忍の若い頃の写真」を検索すると、さまざまな画像が表示される。
モノクロ写真やセピア色のポートレート、若い男性が写った画像などが紹介されることもあるが、写真が本人のものかどうかは、見た目だけでは判断できない。
若い頃の写真を確認する際の3つのポイント写真の信頼性を判断するには、次の点が重要になる。
1.撮影年月日が明らかになっているか
1960年代や1970年代の写真だと紹介されていても、撮影年月日が分からなければ、その年代の本人写真だと確定することはできない。
2.新聞社や通信社などの出典があるか
共同通信、時事通信、朝日新聞などの報道写真には、撮影日や撮影場所、写真説明が付く場合がある。
写真の出典が明確であれば、撮影された時期や状況を調べる手掛かりになる。
3.画像の転載元ではなく原典を確認できるか
SNSや画像まとめサイトに掲載された写真は、元の掲載媒体が省略されている場合がある。
転載を繰り返した画像では、別の人物の写真や、撮影年代が異なる写真が混同される可能性もある。
報道写真で確認できる司忍の姿司忍の姿を撮影日付きで確認できる報道写真の一例として、2011年4月9日の府中刑務所出所時の写真がある。
朝日新聞の写真資料を掲載したwithnewsでは、同日の司忍の姿を紹介している。
このとき司忍は69歳だった。
つまり、この写真は報道資料で撮影日を確認できる本人の写真だが、20代や30代の若い頃を写したものではない。
また、2022年にはFRIDAYデジタルが東京駅や新横浜駅に現れた司忍の姿を報道している。
2026年2月の同誌の記事では84歳の誕生日に関する写真も掲載された。
こうした写真は、撮影時期と人物を確認できる報道資料として価値がある。
一方、1960年代や1970年代の本人写真としてネット上に流通する画像については、撮影者や原掲載媒体、撮影日が確認できるかどうかが判断の分かれ目となる。
「若い頃はイケメン」という評価は事実なのか若い頃の写真を見て、精悍な顔立ちや端正な印象を受ける人がいること自体は、個人の感想として自然なことだ。
しかし、「イケメンだった」という評価と、本人の経歴や写真の真正性は別の問題である。
画像の印象だけから性格、能力、組織内での地位まで推測することはできない。
とりわけ暴力団関係者の写真は、報道目的で撮影されたもの、行事の記録写真、第三者が転載した画像など、公開される経緯がさまざまである。
写真を見る際には、容姿の評価よりも、撮影時期と出典を確認することが重要だ。
【司忍の現在は?】2026年11月時点の立場と山口組の情勢
2026年現在も六代目山口組の代表者として記載2026年11月現在、司忍は84歳である。
大阪府警察が公開する指定暴力団一覧表では、六代目山口組の代表する者として篠田建市の名前が掲載されている。
同資料には、六代目山口組の構成員数が約3,100人、勢力範囲が1都1道2府40県と記載されている。
これらは警察が公表する組織情報であり、司忍の現在の立場を確認するうえで重要な資料となる。
2025年以降の山口組をめぐる動き2015年8月、山口組は分裂し、神戸山口組が結成された。
その後、両組織をめぐる対立抗争は長期化し、2020年には特定抗争指定暴力団等への指定が行われた。
2025年4月には六代目山口組が抗争終結の宣誓書を兵庫県警に提出したと報じられた。
しかし、これによってすべての対立が解消したわけではない。
2026年9月には、六代目山口組と池田組の特定抗争指定が解除され、絆會との指定も解除された。
一方、神戸山口組との指定は継続している。
2026年10月5日には、兵庫県公安委員会が六代目山口組と神戸山口組への特定抗争指定を3か月延長し、期限を2027年1月6日までとすることを公示した。
このように、抗争をめぐる状況は相手組織ごとに異なる。
84歳という年齢と今後の組織運営司忍の長期在任を考える際には、個人の年齢だけでなく、組織の後継体制にも目を向ける必要がある。
2025年には髙山清司が若頭を退き、竹内照明が後任の若頭に就任したと報じられた。
2026年2月のFRIDAYデジタルも、竹内若頭と髙山相談役の存在を伝えている。
ただし、後継体制に関する人事が進むことと、司忍の組長退任が正式に決定することは同じではない。
2026年11月時点で、警察の公開資料には篠田建市が六代目山口組の代表者として記載されている。
【司忍の若い頃】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:司忍の本名は何ですか?
A1:本名は篠田建市(しのだ・けんいち)です。司忍は通称・渡世名として使用されている名前です。
Q2:司忍は何年生まれで、2026年現在何歳ですか?
A2:1942年1月25日生まれです。2026年1月25日に84歳となり、同年11月現在も84歳です。
Q3:司忍の出身地はどこですか?
A3:大分県大分市とされています。高校卒業後、大阪を経て名古屋へ移ったという経歴が紹介されています。
Q4:司忍の学歴はどこですか?
A4:人物紹介では大分県立水産高等学校卒業とされています。同校は現在の大分県立海洋科学高等学校につながる学校の系譜にあります。
Q5:司忍は1962年にどの組織へ加入したのですか?
A5:1962年、三代目山口組系鈴木組内の弘田組に加入したとされています。当時20歳でした。
Q6:司忍が弘道会を結成したのは何年ですか?
A6:1984年です。弘田武志の引退に伴い、司忍が弘田組の関係者らを基盤として弘道会を結成しました。
Q7:司忍と髙山清司はどのような関係ですか?
A7:髙山清司は弘道会の後継会長を務め、2005年には山口組の若頭に就任した人物です。司忍の組織運営を理解するうえで重要な関係者です。
Q8:司忍の若い頃の写真は本物ですか?
A8:本人の若い頃の写真として紹介される画像には、撮影年月日や原典が明確でないものもあります。2011年4月9日の出所時の写真など、撮影日と報道機関の出典を確認できる画像とは区別する必要があります。
司忍の若い頃を振り返ると、大分県大分市で生まれた篠田建市が、1962年に三代目山口組系弘田組へ加入し、司興業、弘道会を経て、2005年に六代目山口組組長へ就任したという経歴が浮かび上がる。
特に重要なのは、1984年の弘道会結成と、2005年の髙山清司への弘道会会長職の継承である。この2つの出来事は、司忍の組織内での立場と、その後の山口組の人事構造を理解するうえで欠かせない。
若い頃の写真については、ネット上の容姿に関する評価だけで本人像を決めつけることはできない。撮影年月日、原掲載媒体、写真説明が確認できる報道資料を優先することが、誤った情報を避ける近道となる。
2026年11月現在、司忍は84歳で、警察の公開資料でも六代目山口組の代表者として記載されている。髙山清司から竹内照明への若頭交代や、分裂組織との特定抗争指定の変化など、組織を取り巻く環境も変化している。
司忍という人物を理解するには、若い頃の写真の印象だけでなく、大分での生い立ち、弘田組時代、弘道会結成、渡辺芳則からの継承、そして2026年の組織情勢までを一連の歴史として捉えることが重要である。
資料確認・主な報道および公的資料
- 文春オンライン「《健康長寿とヤクザの出世》“集団指導体制”の山口組で、なぜ司組長が6代目を継ぐことになったのか?」(2020年)— 組織内の人事、渡辺芳則との継承関係、髙山清司との関係。
- 大分県立海洋科学高等学校公式サイト — 学校の沿革と名称変更。
- 講談社・FRIDAYデジタル(2026年2月10日)— 84歳の誕生日と髙山清司相談役、竹内照明若頭の動向。
- 大阪府警察「指定暴力団一覧表」— 六代目山口組の代表者、構成員数、勢力範囲。
- 神戸新聞NEXT(2026年9月17日)、サンテレビ(2026年10月5日)— 特定抗争指定の延長と解除の状況。
- withnews・朝日新聞写真資料 — 2011年4月9日の出所時写真の撮影日と説明。
- 法政論叢掲載論文「これからの暴力団対策」— 暴力団の組織構造と法規制の変化。