2026年現在も、日本の近代経済を築いた実業家として知られる渋沢栄一。しかし、その華々しい功績とは対照的に、私生活では複雑な女性関係と多くの子供を持っていたことでも知られています。渋沢栄一の子供は何人いたのでしょうか。正妻の尾高千代との間に生まれた子供だけでなく、後妻の伊藤兼子、複数の妾との間に生まれた庶子まで含めると、少なくとも17人以上、資料によっては18人以上とされています。
さらに注目されるのが、68歳だった1908年にも子供が生まれていたという事実です。妻と妾が同居していたとされる家庭事情や、子供の人数が資料によって異なる理由、現在につながる子孫の系譜まで、渋沢家の家族構成を整理します。
【結論】渋沢栄一の子供は何人?17人以上とされる人数の真相

渋沢栄一の子供は、一般に17人以上と紹介されています。近年の系図研究では、妻との間に生まれた子供と庶子を合わせて18人以上とする整理もあります。
この違いは、単純な計算間違いではありません。幼くして亡くなった子供の記録や、家系図に掲載される人物の範囲、婚外子の認定方法によって、集計対象が異なるためです。
妻との間に生まれた子供は10人または11人渋沢栄一には、尾高千代と伊藤兼子という2人の妻がいました。それぞれの間に生まれた子供は、次のように整理されています。
- 尾高千代との間:2男3女、計5人
- 伊藤兼子との間:5男1女、計6人
合計すると11人です。ただし、後妻・兼子との間に生まれたとされる敬三郎については、掲載する系図と掲載しない系図があり、集計によって10人とする場合もあります。
また、妻との間に生まれた子供のうち、成人するまで成長したのは4男3女の7人とされています。幼少期に亡くなった子供を含めるかどうかも、総数に差が生まれる理由の一つです。
庶子は少なくとも7人とする研究がある妻以外の女性との間にも、渋沢栄一には複数の子供がいたと伝えられています。
経営史学者・系図研究者の菊地浩之氏は、2024年のプレジデントオンラインの記事で、正妻以外との間に少なくとも7人の子供がいたという整理を紹介しています。2026年に公開された関連の紹介記事でも、庶子を含め18人以上という数字が取り上げられています。
つまり、妻との間に生まれた子供を10人と数える場合は17人以上、11人と数える場合は18人以上となります。
「17人以上」は広く使われている表現ですが、「18人以上」という数字にも根拠となる数え方があります。正確な総数を一つの数字に固定するより、確認できる家族関係と集計方法を分けて考えることが実態に近いといえます。
【正妻と後妻】尾高千代・伊藤兼子との子供の名前と家族関係
渋沢栄一の家族構成を理解するうえで、まず押さえておきたいのが2人の妻です。
最初の妻は、幼なじみで従妹でもあった尾高千代。千代の死後に再婚した相手が伊藤兼子です。2人との結婚時期や子供の名前を確認すると、渋沢家の家族関係が見えてきます。
最初の妻・尾高千代との間に生まれた5人尾高千代は1841年生まれで、栄一より1歳年下の従妹でした。2人は安政5年(1858年)に結婚しています。結婚した当時、栄一は18歳でした。
千代は栄一が故郷を離れて一橋家に仕えた時期や、幕臣としてフランスに渡った時期にも、故郷で家庭を守りました。
渋沢史料館には、栄一が千代に宛てた約30通の書簡が所蔵されています。これらの手紙からは、政治や経済の仕事で各地を奔走する栄一と、それを支えた千代の関係をうかがうことができます。
千代との間に生まれた子供は、次の5人です。
- 渋沢市太郎:1862年生まれ。同年に亡くなった。
- 穂積歌子:1863年生まれ。法学者・穂積陳重の妻となった。
- 阪谷琴子:1870年生まれ。後に阪谷芳郎と結婚した。
- 渋沢糸子:1871年生まれ。同年に亡くなった。伊登とも呼ばれる。
- 渋沢篤二:1872年生まれ。栄一の後継者として期待された。
千代は明治15年(1882年)に亡くなりました。栄一との間に生まれた5人のうち、成人したのは歌子、琴子、篤二の3人です。
後妻・伊藤兼子との間に生まれた6人千代が亡くなった翌年の1883年、栄一は伊藤兼子と再婚しました。
兼子との間には、5男1女が生まれたとされています。名前が伝えられている子供は以下のとおりです。
- 渋沢敬三郎:1883年生まれとされる早世した子供。系図によって記載に違いがある。
- 渋沢武之助:1886~1946年。
- 渋沢正雄:1888~1942年。
- 明石愛子:1890~1977年。明石照男と結婚した。
- 渋沢秀雄:1893~1984年。
- 渋沢忠雄:1896~1897年。幼くして亡くなった。
兼子との間に生まれた子供にも、幼くして亡くなった人物がいました。栄一の孫にあたる鮫島純子の著書では、兼子が結婚後に流産や新生児の夭折を経験したことにも触れられています。
こうした事情から、家系図によって敬三郎の記載が異なり、子供の総数にも差が生まれています。
【家族構成と家系図】実子・庶子・養子の関係を一覧で整理
渋沢栄一の家系図を調べる際に注意したいのが、嫡出子、庶子、養子の区別です。
栄一には2人の妻との間に生まれた子供のほか、婚外子とされる子供や、養子として迎えた人物もいました。すべてを同じ意味で「実子」と数えると、家族構成を誤解する原因になります。
深谷市の地域資料に掲載された略系図でも、栄一の本流と庶系が区別されています。
| 区分 | 人物・関係 | 子供・代表的な人物 | 人数・注意点 |
|---|---|---|---|
| 最初の妻 | 尾高千代 | 市太郎、歌子、琴子、糸子、篤二 | 2男3女の5人 |
| 後妻 | 伊藤兼子 | 敬三郎、武之助、正雄、愛子、秀雄、忠雄 | 5男1女の6人。敬三郎の扱いには資料差がある |
| 庶子 | 複数の女性との間 | 長谷川重三郎など | 少なくとも7人とする研究がある |
| 養子 | 尾高平九郎 | 千代の弟にあたる人物 | 実子の人数には含めない |
渋沢家の家族関係で見落とされやすいのが、尾高平九郎の存在です。
平九郎は千代の弟で、栄一が養子として迎えた人物でした。幕末の動乱のなかで振武軍に参加し、明治元年(1868年)に亡くなっています。
栄一の家系図には養子として登場しますが、血縁上の実子ではありません。そのため、子供の人数を数える場合には、妻や妾との間に生まれた実子とは分ける必要があります。
家系図が複雑になった理由渋沢家の系譜が複雑なのは、単に子供が多かったからだけではありません。
娘たちが穂積家や阪谷家、明石家などに嫁いだことで、子孫の姓も複数に分かれました。加えて、庶子の系統や養子の関係まで加わります。
そのため、渋沢姓だけを追いかけても、栄一の子孫全体を把握することはできません。家系図を見る際は、婚姻関係と血縁関係、養子縁組を分けて読むことが大切です。
【妾は何人?】大内くにとの妻妾同居と渋沢栄一の女性関係
渋沢栄一の女性関係で特に知られているのが、正妻と妾が同じ家で暮らしていたという話です。
栄一には千代と兼子という2人の妻がいましたが、それ以外にも複数の女性との関係が伝えられています。妾の正確な人数を確定することは難しく、子供の人数と女性の人数を同じものとして扱うこともできません。
大内くにと尾高千代が同じ家で暮らした経緯フランス文学者の鹿島茂氏は、2021年の文藝春秋の記事で、大内くにという女性と栄一の関係を紹介しています。
その記述によると、栄一は明治4年(1871年)、31歳のときに大阪で大内くにと出会いました。その後、千代の許可を得て、くにを神田の新居に連れ帰り、同居させたとされています。
加えて、千代とくにはほぼ同じ時期に子供を産んだと伝えられています。2人が並んで写る写真も残されており、妻妾同居を象徴する資料として紹介されています。
このような家庭のあり方は、現在の結婚観からすると驚きをもって受け止められます。しかし、明治時代の上流・実業家層では、妻以外の女性を家庭内で養う慣習が存在していました。
鹿島氏は当時の家族制度について、妻が家庭を運営する一方で、妾も家族組織の一員として位置づけられる場合があったと説明しています。
妾は何人いたのか?正確な人数が分からない理由渋沢栄一の妾の人数については、複数の女性との関係が知られていますが、確定した人数を示す公的な一覧はありません。
その背景には、次のような事情があります。
- 女性との関係がすべて公的な婚姻記録に残るわけではなかった。
- 庶子の認知や家系図への記載が一律ではなかった。
- 子供の出生記録と母親の名前が、後世の資料で十分に結びつかない場合がある。
- 当時の家族関係を記録した日記や回想録にも、表現上の違いがある。
つまり、庶子が7人以上いたという整理があっても、妾が7人だったという意味にはなりません。1人の女性との間に複数の子供が生まれた可能性もあるためです。
大内くには渋沢家の庶系を考えるうえで重要な人物ですが、栄一と関係した女性をすべて彼女と同一視することはできません。
【68歳で子供】渋沢栄一と長谷川重三郎の父子関係とは
渋沢栄一の家族史のなかでも、特に驚かれるエピソードが、68歳で子供をもうけたという話です。
その子供として知られるのが、後に銀行家として活躍した長谷川重三郎です。
1908年11月5日に生まれた長谷川重三郎長谷川重三郎は明治41年(1908年)11月5日、東京で生まれました。
渋沢栄一は1840年3月16日生まれです。そのため、長谷川が誕生した1908年には68歳でした。
長谷川重三郎は、栄一の庶子とされる人物です。日外アソシエーツの『20世紀日本人名事典』や講談社の『日本人名大辞典』でも、渋沢栄一を実父とする人物として紹介されています。
長谷川重三郎は銀行家として活躍した長谷川は父・栄一が設立に関わった第一銀行に入行しました。
その後、同行で取締役、常務、専務、副頭取などを歴任し、1966年には頭取に就任しています。
第一銀行と三菱銀行の合併計画にも関わりましたが、計画は第一銀行内部の反対などによって実現せず、1969年に相談役へ退きました。
1985年3月4日、76歳で亡くなっています。
長谷川の存在は、栄一の子供が家庭内で知られていた嫡出子だけに限られなかったことを示す事例です。経済界の有力者として活躍した人物が、実は栄一の婚外子だったという点も、当時の渋沢家の複雑な家族関係を物語っています。
68歳での子供の誕生は珍しい逸話だった栄一が68歳で子供をもうけたことは、単なる年齢の珍しさだけで語られるものではありません。
彼は当時すでに第一銀行をはじめとする多くの企業の設立や育成に関わり、近代日本の経済界を代表する人物でした。その一方で、私生活では高齢になっても女性との関係が続いていたことが、日記や家族の回想などから伝えられています。
鹿島茂氏が紹介した栄一の日記には、68歳のころにも本郷真砂町に住む女性のもとへ通っていた記録があります。こうした記録と長谷川の出生年が重なることからも、晩年まで続いた栄一の女性関係が注目されてきました。
【子孫は現在】渋沢栄一の家系はどこまで続いている?
渋沢栄一は1931年11月11日に亡くなりましたが、その子孫は現在まで続いています。
特に、妻との間に生まれた7人の成長した子供たちは、それぞれの家庭を築き、政財界や文化・学術分野に関係する人物を輩出しました。
渋沢栄一の子孫には政財界や文化人もいる栄一の長男・篤二の子供である渋沢敬三は、日本銀行総裁や大蔵大臣を務めた人物です。経済界での活動に加え、民俗学・民具研究にも大きな功績を残しました。
また、長女・歌子は法学者の穂積陳重に嫁ぎ、次女・琴子は阪谷芳郎と結婚しました。こうした婚姻関係を通じて、渋沢家の血縁は複数の家系へと広がっています。
深谷市の資料に掲載されている略系図では、栄一の嫡出系だけでなく、庶系についても別に示されています。これは、渋沢家の歴史を理解するうえで重要な資料です。
2026年現在、子孫の人数は公表されている?2026年現在、渋沢栄一の子孫は複数の家系に広がっています。ただし、存命の子孫全員を網羅した公的な名簿や、現在の総人数を示す確定的な統計は公表されていません。
また、女性の子孫は婚姻によって姓が変わっているため、渋沢姓だけを基準に調べても、血縁関係をすべて把握することはできません。
現在の子孫を調べる場合は、渋沢家の家系図だけでなく、穂積家や阪谷家など、婚姻によってつながった家系も含めて見る必要があります。
新1万円札の肖像と女性関係をめぐる議論2024年7月に渋沢栄一の肖像を採用した新1万円札が発行されると、その功績だけでなく、女性関係も改めて話題になりました。
特に、結婚式のご祝儀に渋沢栄一の新1万円札を使うのは不適切なのではないか、という意見がインターネット上で広がりました。不貞を連想させる人物の紙幣を結婚祝いに使うのは避けたいという考え方です。
これについて、結婚式場探しサービスを運営するトキハナが2024年7月30日から8月6日に20~40代の男女326人を対象に実施した調査では、次の結果が示されています。
- 69.1%:マナー違反だと感じない。
- 30.9%:マナー違反だと感じる。
この結果から分かるのは、栄一の女性関係に対する評価が現在も人によって異なるということです。ただし、アンケートは個人の意識を調べたものであり、新1万円札を結婚式のご祝儀に使用することを禁止する正式なマナーが存在するわけではありません。
経済人としての功績と、家庭人としての行動を分けて評価することが、渋沢栄一という人物を理解するうえで欠かせない視点です。
【渋沢栄一の子供】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:渋沢栄一の子供は全部で何人ですか?
A1:一般には17人以上とされています。妻との間に生まれた子供は10人または11人とする資料があり、さらに少なくとも7人の庶子がいたという研究があります。数え方によって18人以上となります。
Q2:渋沢栄一の正妻は誰ですか?
A2:最初の妻は尾高千代です。1858年に結婚し、2男3女をもうけました。千代が1882年に亡くなった後、1883年に伊藤兼子と再婚しています。
Q3:渋沢栄一は何人の妾がいたのですか?
A3:正確な人数は確定していません。大内くになど複数の女性との関係が知られていますが、子供の人数と妾の人数は一致するとは限りません。
Q4:渋沢栄一は本当に68歳で子供をもうけたのですか?
A4:はい。1908年11月5日生まれの銀行家・長谷川重三郎は、渋沢栄一の庶子とされています。栄一は同年68歳でした。
Q5:渋沢栄一と妾が同居していたというのは本当ですか?
A5:文藝春秋に掲載された鹿島茂氏の記事では、大内くにという女性が尾高千代と同じ家で暮らしていたと紹介されています。千代の許可を得て同居したという経緯も伝えられています。
Q6:渋沢栄一の子孫は現在もいるのですか?
A6:はい。歌子、琴子、篤二など、成人した子供たちの系統を中心に子孫が続いています。ただし、存命の子孫全員の人数や詳細な名簿は公表されていません。
渋沢栄一の子供は、妻との間に生まれた子供と庶子を合わせて17人以上とされ、資料によっては18人以上に達します。
最初の妻・尾高千代との間には2男3女、後妻・伊藤兼子との間には5男1女が生まれました。加えて、大内くにとの妻妾同居や、68歳で父親になったとされる長谷川重三郎の存在など、栄一の女性関係は当時としても際立ったものでした。
子供の人数に違いが生まれるのは、幼くして亡くなった子供の記録や庶子の系譜が、資料によって異なるためです。単純に17人、18人と断定するよりも、嫡出子・庶子・養子を区別して理解することが大切です。
渋沢栄一は、約500の企業の設立・育成に関わった近代日本を代表する実業家である一方、家庭では複雑な家族関係を築いた人物でもありました。『論語と算盤』で道徳と経済の両立を説いた人物の私生活を知ることは、歴史上の偉人を一面的に捉えないための重要な手がかりになります。
功績だけでなく、家族や女性関係も含めて多角的に見ることで、渋沢栄一という人物の実像がより鮮明になります。
参考資料・確認先