昭和を代表する歌手・女優の江利チエミと、日本映画界を象徴する俳優・高倉健。二人は1956年の映画『恐怖の空中殺人』で共演したことをきっかけに親しくなり、1959年2月16日に結婚しました。しかし、誰もがうらやむスター夫婦の生活は長く続かず、1971年に離婚。それから11年後、江利チエミは45歳という若さで亡くなりました。
離婚の背景として報じられてきたのは、江利の異父姉による金銭トラブルや夫婦間のすれ違いです。一方、関係者の回想からは、単純な金銭問題だけでは説明できない夫婦の事情も浮かび上がります。高倉が再婚しなかった理由、二人の間に生まれなかった子供を供養する水子地蔵、そして離婚後も続いたとされる交流。2026年現在までに残された報道、評伝、関係者の証言をたどります。
【馴れ初め】江利チエミと高倉健の出会いは1956年の映画『恐怖の空中殺人』

江利チエミは1937年1月11日生まれ。1952年に「テネシー・ワルツ」でレコードデビューし、同年の「カモン・ナ・マイ・ハウス」などのヒットによって一躍人気歌手となりました。
美空ひばり、雪村いづみとともに「三人娘」と呼ばれ、歌唱力だけでなく、映画やテレビでも幅広く活躍。後には実写映画やテレビドラマの『サザエさん』で主人公を演じ、日本初期のブロードウェイミュージカルとして知られる『マイ・フェア・レディ』にも出演しました。
一方の高倉健は1931年2月16日生まれ。1955年に東映へ入社し、翌1956年に映画『電光空手打ち』で主演デビューした若手俳優でした。後年の任侠映画や『幸福の黄色いハンカチ』『鉄道員(ぽっぽや)』で知られる国民的スターとは異なり、江利と知り合った当時は、俳優としてこれから飛躍していく時期にありました。
二人の距離を縮めた『恐怖の空中殺人』二人が共演したのは、東映制作の探偵活劇『恐怖の空中殺人』です。1956年12月26日に劇場公開された84分の作品で、監督は小林恒夫。片岡千恵蔵、岡田英次、山村聰らも出演しています。
作品では、国際麻薬密輸団をめぐる事件を軸に、落下傘で降下してくる死体や警察の捜査などが描かれます。江利は出演者の一人として参加し、高倉もキャストに名を連ねました。
映画情報を掲載する映画.comでも、公開日や出演者が確認できます。二人の関係を振り返る際に欠かせない作品ですが、作品そのものの恋愛描写が二人の交際につながったわけではありません。撮影を通じて知り合い、個人的な関係へ発展したことが、後年の報道で紹介されています。
当時を知る映画関係者の回想を掲載した芸能報道によると、江利は高倉に強く惹かれ、芸能界で母親のように慕っていた清川虹子に相談したといいます。清川が高倉に二人の交際を後押しする話をしたことが、関係の進展につながったというエピソードも伝えられています。
ただし、この馴れ初めの細部は、後年に紹介された関係者の回想に基づくものです。映画での共演と1959年の結婚は確認できる事実であり、交際開始までの具体的なやり取りは証言として区別して受け止める必要があります。
【1959年の結婚】夫婦の生活と子供をめぐる悲しい出来事
高倉健の誕生日に結婚した二人二人が結婚したのは1959年2月16日。高倉健の28歳の誕生日にあたる日でした。当時、江利は22歳。結婚式は東京の帝国ホテルで行われました。
人気絶頂の歌手と、将来を期待される映画俳優の結婚は大きな話題になりました。江利は家庭を持つ一方、歌手や女優としての活動も続けていきます。夫婦としての生活と芸能活動を両立する道を歩み始めたのです。
江利は人前でも高倉を大切にしていたと伝えられ、夫婦仲は周囲からも良好に見られていました。2014年の日刊スポーツの記事も、二人の結婚当初について夫婦仲は円満だったと報じています。
1962年、妊娠するも出産には至らなかった二人の結婚生活を語るうえで避けられないのが、子供をめぐる出来事です。
日刊スポーツの2014年11月19日付の記事によると、江利は1962年に妊娠しました。しかし、妊娠高血圧症候群のため、母体と胎児の安全を考慮して妊娠を継続できず、中絶を余儀なくされたとされています。
このため、江利チエミと高倉健の間に、成長した実子はいません。二人に子供がいたという情報や、離婚後に子供を育てたという話とは区別する必要があります。
江利は実兄の子供をわが子のようにかわいがり、養子にすることを考えて一緒に暮らした時期もあったと、後年の評伝をもとにした報道で紹介されています。しかし、その子供も1961年に事故で亡くなったと伝えられています。
子供を望んでいた夫婦にとって、妊娠が出産につながらなかったことは大きな悲しみだったと考えられます。ただし、これが離婚の直接的な原因だったとする確かな根拠はありません。
この妊娠に関連して、後年、高倉の墓のそばに水子地蔵があることも報じられました。二人の間に生まれることのなかった子供を供養する存在として、現在まで語り継がれています。
【1971年の離婚理由】異父姉の金銭トラブルと夫婦のすれ違い
異父姉A子との同居が生活を変えた二人の結婚生活に大きな影響を与えたとされるのが、江利の異父姉の存在です。
異父姉A子は、江利の母親が父親とは別の男性との間にもうけた子供とされています。1962年ごろに江利の前に現れ、家庭の事情を抱えていたことから、江利は姉を気遣い、同居を受け入れました。
江利は姉を信頼し、家計や金銭管理などを任せていたと評伝では説明されています。しかし、後になって、その信頼が深刻な問題につながっていたことが明らかになります。
銀行預金の使い込みと自宅の抵当問題プレジデント ウーマン オンラインが2024年に掲載した田幸和歌子氏の記事は、藤原佑好著『江利チエミ 波乱の生涯 テネシー・ワルツが聴こえる』をもとに、異父姉による金銭トラブルを詳しく紹介しています。
同記事によれば、A子は江利の実印を使い、銀行預金を使い込んだほか、高利貸しから多額の借金をして、江利と高倉の自宅を抵当に入れていたとされます。
加えて、A子は高倉に女性関係の問題があるかのような話を江利に伝え、夫婦間の不信感を強めたとも伝えられています。
つまり、金銭問題だけでなく、夫婦の信頼関係に影響する情報が家庭内に持ち込まれていたことになります。
1971年の離婚から1972年の告訴へこうした問題が重なるなか、二人は1971年に離婚しました。江利が高倉に迷惑をかけないために離婚を決断したという説明は、日刊スポーツや後年の評伝記事で紹介されています。
そして翌1972年、江利は異父姉を告訴しました。コトバンク掲載の『新撰 芸能人物事典 明治~平成』によれば、異父姉には懲役3年の実刑判決が下されています。江利は離婚後、自分の名義で生じた借金の返済に取り組むことになりました。
ここまでの出来事を整理すると、二人の結婚から離婚までの経緯は次のようになります。
| 年月 | 出来事 | 二人への影響・補足 |
|---|---|---|
| 1956年12月 | 『恐怖の空中殺人』公開 | 江利チエミと高倉健が共演 |
| 1959年2月16日 | 二人が結婚 | 高倉の28歳の誕生日 |
| 1961年 | 江利がかわいがっていた甥が事故で死去 | 家族にとって大きな悲しみとなる |
| 1962年 | 江利が妊娠、出産には至らず | 妊娠高血圧症候群が関係したと報道 |
| 1962年ごろ | 異父姉A子との同居 | 後に金銭トラブルが明らかになる |
| 1970年 | 夫婦の自宅が火災に遭う | 生活環境にも変化が生じる |
| 1971年 | 江利と高倉が離婚 | 結婚生活に終止符を打つ |
| 1972年 | 江利が異父姉を告訴 | 異父姉に懲役3年の実刑判決 |
| 1982年2月13日 | 江利チエミ死去 | 45歳。脳出血と誤嚥による窒息 |
| 2014年11月10日 | 高倉健死去 | 83歳。悪性リンパ腫 |
この年表から分かるのは、離婚が突然起きた出来事ではなかったということです。親族の金銭問題、家族の死、妊娠をめぐる悲しみ、自宅の火災、夫婦の生活上のすれ違いなど、複数の出来事が長い時間をかけて重なっていました。
【清川虹子の証言】親族トラブルだけでは説明できない離婚の真相
清川虹子が語った異父姉の行動江利チエミの芸能界での母親的存在だった清川虹子は、二人の離婚について重要な証言を残しています。
藤原佑好の評伝に収録された清川の回想を、プレジデント ウーマン オンラインの記事が紹介しています。清川は、江利の自宅が売りに出されているという話を不動産関係者から聞き、最初は信じられなかったと振り返っています。
その後、江利が知らないうちに不渡り手形が出回っていたことや、姉に実印などを渡していたことが明らかになったといいます。
「実印から何から全部渡していたお姉さんがやったことでした」
これは清川虹子の回想として評伝に記録された内容です。異父姉が江利の財産管理に深く関与していたことや、夫婦の関係にも影響を与えたことを示す証言として紹介されています。
また、清川はA子が高倉に女性がいると江利に吹き込み、離婚を勧めて弁護士への相談まで進めていたと語っています。
ただし、この証言は清川が後年に振り返った内容であり、当時の夫婦間のすべてのやり取りを直接記録したものではありません。金銭問題については、後に異父姉への告訴と実刑判決があったことも、別の資料から確認できます。
板東英二が伝えた高倉健の別の思い一方、離婚理由を異父姉の金銭トラブルだけで説明できないことを示す証言もあります。
2014年12月9日、RBB TODAYは、板東英二がニッポン放送のラジオ番組で明かした高倉との会話を報じました。
板東によると、1999年公開の映画『鉄道員(ぽっぽや)』の撮影中、高倉から江利との結婚生活について聞いたことがあったといいます。
その際に語られたのが、高倉が早朝に狩猟へ出かけようとしたとき、起きてきた江利から、これから自分はどうすればよいのかと尋ねられたというエピソードです。
板東は、この出来事を通じて、高倉が夫という役割を担うことの難しさを感じていたのではないかと解釈しました。
この話は高倉本人の直接の手記ではなく、板東が本人から聞いたとして紹介した回想です。それでも、夫婦の間に生活感覚や精神的な距離の問題があった可能性を考えるうえで、興味深い証言です。
離婚理由を一つに限定できない理由二人の離婚をめぐる情報は、大きく分けると三つの観点があります。
第一は、異父姉による預金の使い込みや借金、自宅の抵当問題です。第二は、異父姉が伝えたとされる高倉の女性関係をめぐる話です。第三は、高倉の仕事の多忙さや夫婦の生活上のすれ違いです。
親族の金銭トラブルが深刻だったことは、後年の評伝や異父姉への実刑判決からもうかがえます。一方で、板東の証言は、高倉自身が結婚生活に難しさを感じていた可能性を示しています。
したがって、離婚を「異父姉に夫婦仲を壊された」という一つの説明だけで捉えると、当事者それぞれが抱えていた事情を見落とすことになります。
【離婚後の関係】水子地蔵と墓参りに残された二人の絆
離婚しても高倉健は江利チエミを気にかけていた1971年に離婚した二人ですが、その関係が完全に途絶えたわけではなかったと伝えられています。
BS朝日の番組『昭和偉人伝』江利チエミ特集では、江利の死後、久保家の仏壇に毎年欠かさず線香を送っていた人物が高倉健だったと紹介されました。
また、2014年11月19日付の日刊スポーツは、高倉が江利の命日に毎年墓参りをして花を手向けていたと報道しています。離婚から長い年月が経過しても、江利を忘れていなかったことをうかがわせるエピソードです。
二人の関係について、離婚後に復縁したという事実は確認されていません。しかし、夫婦という形を終えた後も、相手を大切に思う気持ちが残っていた可能性は、こうした行動から読み取れます。
水子地蔵はどこにある?高倉健と江利チエミの関係を語る際、しばしば取り上げられるのが水子地蔵です。
日刊スポーツの2014年11月19日付の記事によると、高倉は離婚直後の1972年に鎌倉霊園に生前墓を購入していました。その墓の横には、二人の間に生まれることのなかった子供を供養する水子地蔵が建てられていると報じられています。
この地蔵は、二人の間に子供がいたという意味ではありません。1962年の妊娠が出産に至らなかったことに関連して、亡くなった胎児を供養する存在として伝えられています。
離婚後に購入された墓と、そのそばにある水子地蔵。二人の結婚生活には戻れなくても、家族として過ごした時間や、失われた命への思いが残されていたことを感じさせる記録です。
【高倉健が再婚しなかった理由】小田貴月との関係から見える晩年
江利チエミ以外に正式な妻はいなかった高倉健は1971年に江利チエミと離婚した後、正式な再婚をしていません。2014年11月の訃報でも、江利が唯一の妻だったことが報じられています。
では、なぜ高倉は再婚しなかったのでしょうか。
この点について、2023年6月8日付のスポニチは、高倉のパートナーであり、晩年に養女となった小田貴月のテレビ出演時の証言を紹介しています。
小田によれば、高倉とは1996年に出会い、約17年間にわたって関係を築きました。2013年には養子縁組を行い、小田は高倉の養女となっています。
離婚の経験が再婚という選択に影響した小田が説明したところによると、高倉は一度の離婚を経験したことによるトラウマを抱えていたといいます。また、婚姻届という書類に縛られるより、好きで一緒にいることを大切にしたいという考えを持っていたそうです。
「紙にしばられるのは違うんじゃないか」
これは小田がテレビ出演で紹介した高倉の考えです。小田自身も結婚という形式にこだわらなかったと説明しています。
興味深いことに、二人の交際中には婚姻届も用意されていました。高倉は小田に、長期ロケなどで自分に何かあった場合に備えて書類を準備するよう伝えていたといいます。
しかし、最終的には婚姻届を提出することなく、2013年に養子縁組を選択しました。小田の母親が脳梗塞で倒れた際、婚姻関係や親族関係がないと病状の確認や看病に制限が生じることを知り、家族としての法的な関係を考えるようになったことがきっかけだったと報じられています。
つまり、高倉が再婚しなかった理由については、江利との離婚経験による心理的な影響と、婚姻という形式にこだわらない本人の価値観が、小田の証言から明らかになっています。
「再婚しなかったから、その後ずっと一人だった」という理解も正確ではありません。高倉には長年寄り添ったパートナーがいて、最終的には養子縁組という形で家族関係を築いていたのです。
【1982年と2014年】江利チエミと高倉健、それぞれの死因と残した功績
江利チエミは1982年2月13日、45歳で急逝江利チエミは1982年2月13日、東京都内の自宅で亡くなりました。45歳でした。
コトバンク掲載の人物事典や日刊スポーツの報道によると、死因は脳出血と、吐瀉物を誤嚥したことによる窒息です。
江利は離婚後、異父姉の金銭問題によって生じた借金の返済を続けながら、芸能活動に取り組んでいました。評伝によれば、最終的には借金を完済し、デビュー30周年記念の活動にも取り組んでいたとされています。
亡くなる直前まで歌手、女優として活動を続けていた江利。その早すぎる死は、昭和の芸能界に大きな衝撃を与えました。
高倉健は2014年11月10日、83歳で死去高倉健は2014年11月10日午前3時49分、悪性リンパ腫のため東京都内の病院で亡くなりました。83歳でした。
所属事務所の発表を伝えたテレビ朝日などによると、体調不良で入院し治療を受けていましたが、容体が急変。葬儀は本人の遺志により近親者のみで執り行われました。
代表作には『幸福の黄色いハンカチ』『八甲田山』『南極物語』『鉄道員(ぽっぽや)』などがあります。2013年には文化勲章を受章し、日本映画界を代表する俳優として評価されました。
2026年も続く江利チエミの音楽的評価江利チエミの功績は、高倉健との結婚や離婚だけで語り尽くせるものではありません。
所属レコード会社のキングレコードは、現在も公式アーティストページで江利の経歴や作品を紹介しています。1952年の「テネシー・ワルツ」でのデビュー、「さのさ」「新妻に捧げる歌」「酒場にて」などの楽曲、映画『サザエさん』での主演、そして1953年から16年連続でのNHK紅白歌合戦出場など、その実績は幅広いものです。
加えて、2025年には『江利チエミの民謡 ベスト』や『江利チエミ全曲集』が発売され、2026年1月には復刻JAZZレコードの試聴イベントも告知されました。
没後40年以上が経過しても、音楽作品が再発売され、ジャズ歌手としての活動が紹介され続けていることは、江利が残した芸術的な価値を示しています。
高倉健が日本映画界に残した功績と同様に、江利チエミもまた、昭和の音楽・映画・舞台を支えた重要な存在です。
【プロの結論】江利チエミと高倉健の関係は離婚後も続いていた
江利チエミと高倉健の結婚生活は、1959年から1971年まで続きました。二人の出会いは映画であり、結婚当初は周囲からも円満な夫婦として見られていました。しかし、子供をめぐる悲しみや親族の金銭トラブル、仕事によるすれ違いなど、複数の問題が重なり、最終的に離婚を選択しました。
特に注目したいのは、離婚の理由について、資料によって説明の重点が異なることです。
異父姉の金銭問題は、評伝や人物事典、当時の報道を通じて確認できる重要な背景です。一方、板東英二の回想は、高倉自身が結婚生活に難しさを感じていた可能性を伝えています。どちらか一方だけを採用して離婚のすべてを説明することはできません。
また、高倉が離婚後に再婚しなかったことについても、江利への思いだけが理由だったと断定するのは適切ではありません。晩年のパートナーだった小田貴月の証言からは、離婚経験による心理的な影響や、婚姻という形式にとらわれない考え方が明らかになっています。
二人の関係を理解するために大切なのは、次の三つの判断基準です。
- 確認できる事実を優先する:1959年の結婚、1971年の離婚、江利の1982年の死去、高倉の2014年の死去など、記録で確認できる出来事を軸にする。
- 証言と確定事項を区別する:清川虹子や板東英二の回想は重要な手掛かりだが、当事者全員の見解が一致しているわけではない。
- 離婚後の人生も見る:高倉の墓参りや線香、小田貴月との関係、江利の借金返済と芸能活動まで含めて理解する。
江利チエミと高倉健は、離婚によって夫婦ではなくなりました。しかし、墓参りや供養に関する報道、関係者の回想を通じて、二人の間に残った特別なつながりが伝えられています。
【江利チエミと高倉健】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:江利チエミと高倉健の馴れ初めは何ですか?
A1:1956年公開の東映映画『恐怖の空中殺人』で共演したことがきっかけです。交際に至るまでの詳細については、当時を知る映画関係者の回想などで紹介されています。
Q2:江利チエミと高倉健は何年に結婚し、なぜ離婚したのですか?
A2:1959年2月16日に結婚し、1971年に離婚しました。主な背景として、江利の異父姉による預金の使い込みや借金、自宅の抵当問題、夫婦のすれ違いなどが報じられています。
Q3:江利チエミと高倉健の間に子供はいましたか?
A3:二人の間に成長した実子はいません。1962年に江利が妊娠しましたが、妊娠高血圧症候群のため出産には至りませんでした。この子供を供養する水子地蔵が高倉の墓のそばにあると報じられています。
Q4:高倉健はなぜ江利チエミと離婚した後、再婚しなかったのですか?
A4:晩年のパートナーだった小田貴月の証言によると、一度の離婚によるトラウマがあり、婚姻という形式にこだわらない考えを持っていたそうです。2013年には小田と養子縁組をしています。
Q5:高倉健は離婚後も江利チエミの墓参りをしていたのですか?
A5:日刊スポーツの2014年の報道によると、高倉は江利の命日に毎年墓参りをして花を手向けていたとされています。BS朝日の番組でも、江利の実家に毎年線香を送っていたことが紹介されました。
Q6:江利チエミと高倉健の死因は何ですか?
A6:江利チエミは1982年2月13日、45歳で亡くなりました。脳出血と吐瀉物の誤嚥による窒息が死因とされています。高倉健は2014年11月10日、83歳で悪性リンパ腫のため亡くなりました。
江利チエミと高倉健は、映画での共演をきっかけに出会い、1959年に結婚しました。1971年の離婚には異父姉の金銭トラブルや夫婦のすれ違いが関係していたと報じられていますが、その背景は一つの出来事だけでは説明できません。
江利は1982年に45歳で亡くなり、高倉も2014年に83歳で生涯を閉じました。二人の間に生まれなかった子供を供養する水子地蔵や、高倉が離婚後も墓参りを続けたという報道は、二人が共有した時間を今に伝えています。
そして、江利チエミの歌声は、2026年現在もレコードや音楽作品を通じて聴き継がれています。高倉健の映画と同じように、彼女の芸能活動もまた、昭和の文化を語るうえで欠かせない歴史です。
二人の歩みを振り返ると、離婚という結末だけでなく、その後も続いた供養や記憶、そしてそれぞれが残した仕事にこそ、長く語り継がれる理由があることが分かります。
主な参考資料- キングレコード公式アーティスト情報
- 日刊スポーツ(2014年11月19日)
- BS朝日『昭和偉人伝』江利チエミ特集
- プレジデント ウーマン オンライン(2024年3月23日)
- 藤原佑好『江利チエミ 波乱の生涯 テネシー・ワルツが聴こえる』
- RBB TODAY(2014年12月9日)
- スポニチ(2023年6月8日)
- テレビ朝日ニュース(2014年11月18日)
※離婚理由については、清川虹子の回想、板東英二の証言、人物事典の記述を区別して構成しています。