1958年2月、日本の南極地域観測隊は、やむを得ない事情から昭和基地に15頭の樺太犬を残して南極を離れました。その犬たちの中にいたのが、兄弟犬のタロとジロです。厳しい寒さにさらされ、食料の確保も難しい無人の基地で、2頭は約11か月後の1959年1月14日、第3次南極地域観測隊によって生存を確認されました。
なぜ、ほかの犬たちが命を落とす中でタロとジロだけが生き延びたのでしょうか。そして、観測隊はなぜ犬たちを置き去りにしなければならなかったのでしょうか。実は、生存の背景には樺太犬の能力だけでなく、南極での食料確保や、犬ぞり隊を率いた別の犬の存在をめぐる興味深い仮説もあります。2026年現在も語り継がれるタロとジロの実話を、南極観測の歴史とともに振り返ります。
【実話を解説】タロとジロとは?南極観測隊と行動した樺太犬の兄弟

タロとジロは、日本の初期南極地域観測隊に同行した樺太犬の兄弟です。映画やテレビ番組で紹介されることが多いため、物語上の登場人物として記憶している人もいますが、実在した犬であり、生存発見に至るまでの出来事は日本の南極観測史に記録されています。
タロとジロが南極へ渡った背景日本の南極観測は、1955年の閣議決定を背景に始まりました。1957~1958年の国際地球観測年に参加するため、1956年に第1次南極地域観測隊の派遣が決定します。
当時の南極では、現在のように雪上車や航空機を自由に利用できる輸送体制が整っていませんでした。物資の運搬や内陸部の調査には、犬ぞりが重要な役割を担っていたのです。
そこで採用されたのが、寒冷地での作業に適した樺太犬でした。北海道などで選抜・訓練された犬たちが、観測隊とともに南極へ向かいました。
国立極地研究所の資料によると、第1次観測隊が南極へ連れて行った樺太犬は22頭です。その中には、後に日本中の注目を集めるタロとジロもいました。
樺太犬はどのような犬だったのか樺太犬は、樺太や北海道などの寒冷地で使役されてきた犬です。寒さに耐える被毛と、そりを引くための体力を備え、極地での輸送活動を支える存在でした。
当時の観測隊にとって犬たちは、単なるペットではありません。観測機材や生活物資を運び、人間だけでは難しい雪上移動を助ける重要な働き手でした。
タロとジロも、南極での生活を経験しながら成長しました。こうした環境への適応経験が、後の生存を考えるうえでも重要な背景になります。
【置き去りの真相】なぜ南極観測隊は15頭の犬を残して帰国したのか
タロとジロの物語で、現在も多くの人が疑問に感じるのが「なぜ観測隊は犬たちを置き去りにしたのか」という点です。
この出来事は、単純に隊員が犬を見捨てたという話ではありません。南極観測船の航行不能、悪天候、燃料不足、隊員の安全確保など、複数の厳しい条件が重なった結果でした。
第2次南極観測隊を襲った想定外の事態1957年10月21日、第2次南極地域観測隊を乗せた観測船「宗谷」が日本を出発しました。目的は、第1次越冬隊との交代を実現し、南極での観測を継続することでした。
しかし、宗谷は南極付近で厚い海氷に阻まれます。国立極地研究所の南極・北極科学館が公開する記録によると、1957年12月31日には船が固結した海氷に閉じ込められ、その後およそ40日間、海氷とともに漂流する事態になりました。
第2次隊は昭和基地に到達できず、越冬計画そのものが危機に陥ります。
隊員の撤収が優先され、15頭を連れ帰れなかった現地に残っていた第1次越冬隊員11人は、小型飛行機を使って宗谷への移動を進めました。しかし、航空機の燃料などに制約があり、体重40キロ前後にもなる樺太犬15頭を一緒に輸送することはできませんでした。
1958年2月24日、第2次越冬計画の断念が決定します。こうして、15頭の犬たちは昭和基地に残されることになりました。
犬たちは鎖につながれた状態で残されました。当初は次の観測隊が基地に入り、再び犬ぞりを利用する可能性も考えられていました。しかし、予定していた交代計画が成立しなかったため、犬たちは無人の基地に取り残される結果となったのです。
犬たちを救出できなかったことは、隊員にとっても重い出来事でした。南極観測の初期には、人間の生命を守るための撤収さえ困難を伴うほど、輸送や通信、救助の体制が限られていたことが分かります。
【生存理由の謎】タロとジロはなぜ南極で約1年間生き延びられたのか
タロとジロの生存が確認されたとき、最も大きな疑問となったのは食料の問題でした。
昭和基地には隊員が残した物資があったものの、犬たちがそのまま食料を食べて生き延びたわけではありません。国立極地研究所の展示資料では、基地に残されていた犬用の餌である身欠きニシンには手がつけられていなかったと説明されています。
理由1:鎖から脱出して行動できた15頭のうち、発見時に鎖につながれたまま死亡していた犬は7頭でした。一方、6頭は姿が確認できず、タロとジロの2頭だけが生存していました。
この違いから考えられる重要な条件が、鎖から脱出できたかどうかです。
タロとジロは基地周辺を自由に移動できる状態になっていたと考えられています。鎖につながれたままでは、食料を探すことも、天候の変化に応じて移動することも難しくなります。
生き延びるためには、単に寒さに耐えるだけではなく、移動できる自由を確保することが大きな意味を持っていたと考えられます。
理由2:南極の自然環境から食料を得た可能性もう一つの謎は、タロとジロが何を食べていたのかという問題です。
第1次越冬隊で犬の世話を担当した北村泰一氏の著書などを調べた埼玉県立久喜図書館のレファレンス協同データベースでは、ペンギンやアザラシの糞などが食料候補として紹介されています。
アザラシの糞には消化されずに残った生物由来のものが含まれることがあり、食料になった可能性が考えられているのです。また、ペンギンなどの野生動物から食料を得た可能性も指摘されています。
ただし、タロとジロが実際に何をどれだけ食べていたのかを示す直接的な記録はありません。生存に必要な食料をどのように確保していたのかは、現在も完全に解明されたわけではないのです。
理由3:第三の生存犬リキが助けたという仮説タロとジロの生存理由を考えるうえで、見逃せない存在が「リキ」です。
リキは、第1次観測隊の犬ぞり活動で活躍した犬で、犬ぞり隊のリーダー格だったとされています。タロとジロより経験が豊富で、極地での移動や危険回避についても能力を持っていたと考えられています。
元新聞記者の嘉悦洋氏が北村泰一氏の協力を得て調査したノンフィクション作品『その犬の名を誰も知らない』では、タロとジロ以外にも生き延びた犬がいた可能性が検討されています。
その根拠の一つが、タロとジロの生還から9年後、昭和基地付近で発見された樺太犬の遺骸です。毛色や体格などの特徴から、行方不明になっていた犬の一頭、リキだった可能性が考えられました。
北村氏と嘉悦氏の調査では、リキがタロとジロと行動を共にし、食料を探す方法や危険を避ける方法を教えたのではないかという仮説が示されています。
もしリキが一緒に行動していたなら、経験の浅い兄弟犬が生き延びるうえで大きな助けになった可能性があります。ただし、リキが実際に2頭と行動を共にしていたことが確定したわけではありません。
共食い説は本当だったのかタロとジロの生存をめぐっては、死亡した仲間の犬を食べたのではないかという共食い説も広まりました。
しかし、北村氏の調査や関連資料では、発見された犬の遺体の状態などを踏まえ、この説に疑問が示されています。PHPオンラインで紹介された北村氏の見解でも、共食い説は明確に否定されています。
食料の入手経路としては、基地周辺の食料保管場所や犬ぞりの調査ルートに設けられた食料デポなども検討されています。
つまり、タロとジロが生き延びた理由は、単純な「犬の生命力」だけでは説明できません。鎖からの脱出、行動範囲の確保、食料を得られる環境、そしてリキの存在という複数の可能性を考える必要があります。
【時系列年表】タロとジロの置き去りから生存発見までの経緯
タロとジロの実話を理解するには、第1次観測隊の出発から第3次観測隊による生存確認までの流れを押さえることが重要です。
国立極地研究所の南極観測史や南極・北極科学館の記録、当時の観測船に関する資料を整理すると、主な出来事は次のようになります。
| 年月 | 出来事 | タロとジロへの影響 |
|---|---|---|
| 1956年11月 | 第1次南極地域観測隊が観測船「宗谷」で日本を出発 | 22頭の樺太犬が南極へ向かう |
| 1957年 | 昭和基地が開設され、第1次越冬隊が活動 | 犬ぞりによる物資輸送や調査に参加 |
| 1957年10月 | 第2次観測隊が日本を出発 | 越冬隊の交代が計画される |
| 1957年12月31日 | 宗谷が厚い海氷に閉じ込められる | 予定していた交代計画が困難になる |
| 1958年2月24日 | 第2次越冬計画の断念が決定 | 15頭の樺太犬が昭和基地に残される |
| 1959年1月14日 | 第3次観測隊が昭和基地で犬2頭の生存を確認 | タロとジロの生存が判明 |
| 1960年7月 | ジロが昭和基地で病死 | 南極で生涯を終える |
| 1961年5月 | タロが第4次観測隊とともに帰国 | 北海道大学植物園で暮らす |
| 1970年8月11日 | タロが老衰で死亡 | 14歳7か月の生涯を終える |
第3次観測隊が昭和基地で確認した15頭の状況は、7頭が鎖につながれたまま死亡、6頭が行方不明、2頭が生存というものでした。
ここで注意したいのは、行方不明の6頭がすべて基地周辺で死亡したと確認されているわけではないことです。遺体が見つかっていないため、どこでどのような最期を迎えたのかは分かっていません。
また、タロとジロが発見されたことは、15頭全体が救助されたという意味ではありません。生存していた2頭が確認されたという出来事です。
【1959年1月14日の奇跡】タロとジロの救出までの経緯と再会の瞬間
1958年12月、日本を出発した第3次南極地域観測隊は、昭和基地での観測活動を再開するために南極へ向かいました。
第2次隊の失敗を受け、観測船宗谷は大幅に改装され、大型ヘリコプターを搭載できるようになっていました。そして1959年1月14日、昭和基地に向かった隊員たちが2頭の犬の姿を発見します。
生存していた2頭はタロとジロだった犬たちの生存を確認した際、隊員たちはすぐに2頭の名前を判別できたわけではありませんでした。
そこで重要な役割を果たしたのが、北村泰一氏です。北村氏は第1次越冬隊で犬の世話を担当し、第3次隊にも参加していました。
約1年前に別れた犬たちの特徴を知る北村氏は、2頭の様子を確かめながら、それぞれがタロとジロであることを確認しました。
かつて一緒に南極で生活していた犬たちが、無人の昭和基地で生きていたのです。このニュースは日本に伝えられ、大きな反響を呼びました。
発見された後、すぐに日本へ帰国したわけではないタロとジロの物語で誤解されやすいのが、1959年1月14日に発見された直後、日本に連れ戻されたという認識です。
実際には、2頭は生存確認後も南極に残り、第3次・第4次観測隊とともに昭和基地で過ごしました。つまり、1959年1月14日は日本への帰国日ではなく、約11か月ぶりに生存が確認された日なのです。
その後、2頭の運命は分かれます。ジロは1960年7月、南極で病死しました。一方、タロは1961年5月に第4次観測隊とともに帰国し、日本で余生を過ごしました。
【タロとジロの現在】剥製の保存場所と映画『南極物語』の影響
タロとジロはすでに亡くなっていますが、その姿は現在も日本の博物館や大学の施設に残されています。2026年現在、2頭は南極観測の歴史を伝える象徴的な存在です。
タロの剥製は北海道大学植物園に残されている帰国したタロは北海道大学植物園で暮らしました。南極から帰った後も多くの人に親しまれ、1970年8月11日、14歳7か月で老衰のため亡くなりました。
タロの剥製は北海道大学に保存されています。南極で過ごした時間だけでなく、帰国後の生活も含めて、その生涯を伝える貴重な資料です。
ジロの剥製は国立科学博物館に保存されている一方のジロは、1960年7月に第4次越冬中の昭和基地で病死しました。兄のタロより先に、南極で生涯を終えています。
ジロの剥製は東京都台東区の国立科学博物館に収蔵されています。日本に帰国することはありませんでしたが、その存在は現在も南極観測史の一部として受け継がれています。
映画『南極物語』が広めたタロとジロの物語タロとジロの物語を広く知らしめた作品の一つが、1983年公開の映画『南極物語』です。
実際の南極観測隊と樺太犬たちの出来事を題材にしたこの作品は、犬たちの置き去りや生存、隊員たちとの関係をドラマとして描きました。
映画を通じてタロとジロを知った人も多く、2頭の名前は日本の映画史や動物を扱った作品の中でも広く知られるようになりました。
ただし、映画は実話を基にした映像作品です。演出された場面と実際の観測記録を同一視するのではなく、史実と映画表現を分けて理解することが大切です。
【プロの結論】タロとジロの実話から分かる南極観測隊と犬の歴史
タロとジロの物語は、単に極寒の南極で犬が生き残った奇跡として語るだけでは、その本質を十分に捉えられません。
そこには、日本が南極観測を始めた時代の技術的な制約、観測隊員の安全確保という難題、動物を輸送や調査に活用していた歴史、そして生き残った犬たちをめぐる長年の調査があります。
南極観測における犬ぞりの役割は時代とともに変化した第1次南極地域観測隊が派遣された1950年代、犬ぞりは物資の運搬や雪上移動を支える重要な手段でした。しかし、観測技術や輸送機材が発展するにつれ、犬ぞりの役割は変化していきます。
樺太犬が南極観測で活躍した時代は、1962年の第6次隊による昭和基地の一時閉鎖まで続きました。その後、南極観測が再開されても、かつてのような純粋な樺太犬を使った犬ぞり活動は行われなくなりました。
現在の南極観測では、科学観測機器や雪上車、航空機などが重要な役割を担っています。タロとジロは、こうした技術が十分に整っていなかった時代の南極観測を象徴する存在でもあります。
生存の理由は一つではなく、複数の条件が重なった可能性があるタロとジロの生存を説明するうえで、特定の理由だけを強調するのは適切ではありません。
鎖から抜け出して行動できたこと、樺太犬としての寒冷地への適応、食料を得られる場所を見つけた可能性、そしてリキが行動を共にしていたという仮説。それぞれが生存を考えるための重要な要素です。
特にリキの存在は、長く知られてきた2頭だけの物語に新しい視点を加えました。犬たちの生存には、個体の能力だけではなく、群れの中での経験や関係性も影響した可能性があります。
タロとジロを知るための情報の見極め方タロとジロについて調べる際は、次の3点を区別すると、実話をより正確に理解できます。
第一に、記録された出来事と推測を分けること。1959年1月14日の生存確認や15頭の犬が残された経緯は記録に基づく事実です。一方、食料の具体的な入手方法やリキの同行については仮説が含まれています。
第二に、発見と帰国を混同しないこと。タロとジロが生存確認されたのは1959年1月ですが、タロの帰国は1961年5月です。ジロは帰国することなく南極で亡くなりました。
第三に、映画の演出と観測史料を区別すること。映画『南極物語』は実話を題材にした作品ですが、物語として構成された表現と実際の出来事には違いがあります。
こうした視点を持つことで、感動的なエピソードだけでなく、南極観測の歴史や犬たちの置かれた状況まで理解できるようになります。
タロとジロに関するよくある質問(FAQ)
Q1:タロとジロは南極で何日間生き延びたのですか?
A1:1958年2月に昭和基地に残され、1959年1月14日に第3次観測隊によって生存が確認されました。正確な起点を2月24日とすれば約11か月です。一般には「約1年間」と紹介されています。
Q2:タロとジロはなぜ生き残れたのですか?
A2:鎖から脱出して自由に移動できたことや、南極の自然環境から食料を得た可能性が考えられています。また、犬ぞり隊のリーダー犬リキが2頭を助けたという仮説もあります。ただし、食料の入手方法やリキの行動について、すべてが確定しているわけではありません。
Q3:タロとジロは共食いをしていたのですか?
A3:仲間の犬を食べて生き延びたという説が広まりましたが、北村泰一氏の調査では否定されています。食料の確保については、自然環境や基地周辺の食料保管場所など、複数の可能性が検討されています。
Q4:タロとジロは1959年にすぐ日本へ帰国したのですか?
A4:いいえ。1959年1月14日は生存が確認された日です。2頭はその後も昭和基地で過ごし、ジロは1960年7月に南極で亡くなりました。タロは1961年5月に第4次観測隊とともに帰国しました。
Q5:タロとジロの剥製は現在どこにありますか?
A5:タロの剥製は北海道大学、ジロの剥製は国立科学博物館に保存されています。2頭の姿は、日本の南極観測の歴史を伝える貴重な資料となっています。
Q6:タロとジロの日はいつですか?
A6:毎年1月14日です。1959年1月14日に第3次南極地域観測隊が2頭の生存を確認したことに由来し、「タロとジロの日」「愛と希望と勇気の日」として知られています。
タロとジロは、1958年2月に昭和基地へ残された15頭の樺太犬のうち、約11か月後に生存が確認された2頭です。1959年1月14日の発見は、日本の南極観測史に残る出来事となりました。
2頭が生き延びた理由については、鎖からの脱出、自然環境での食料確保、寒冷地への適応、そしてリキが助けた可能性などが考えられています。しかし、すべての謎が解明されたわけではありません。
その後、ジロは1960年に南極で亡くなり、タロは1961年に帰国して1970年まで生きました。現在もそれぞれの剥製が保存され、南極観測の歴史を伝えています。
2026年に改めてこの実話を振り返る意味は、奇跡的な生還だけを称賛することではありません。厳しい自然環境の中で人間とともに活動した動物たちの役割や、観測隊が直面した困難、そして残された犬たちの運命を知ることにもあります。
タロとジロの物語は、南極観測の黎明期を象徴する歴史であり、今もなお人と動物の関係について考えるきっかけを与え続けています。
主な根拠資料
- 国立極地研究所「日本の南極観測について」「南極・北極科学館」の展示・記録資料。
- テレビ朝日「生きていたタロとジロ。カラフト犬置き去りの悲劇から生まれた南極観測の“奇跡”」。
- 国立国会図書館レファレンス協同データベース「タロとジロは何を食べて生き延びたのか」。
- 医学書院『犬ぞりとリードドッグ』、PHPオンライン「共食いはしていない!」。
- nippon.com「1959年1月14日:タロ・ジロの生存確認」。 (出典: タロ と ジロ(Yahoo!ニュース))