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白川裕二郎は本当に元力士?綱ノ富士の由来と純烈卒業までの軌跡を徹底解説

桂木 洋 桂木 洋 • 更新: • 公開: • 読了約 20 分
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歌謡コーラスグループ「純烈」のメンバーとして知られる白川裕二郎は、実は本物の大相撲力士だった。現役時代は朝日山部屋に所属し、四股名は「綱ノ富士」。1995年9月場所に初土俵を踏み、最高位は序二段99枚目、1996年9月場所を最後に引退した。わずか約1年間の力士生活だったが、千代の富士に憧れて相撲の世界に飛び込んだという経歴は、現在の華やかな芸能活動からは想像しにくい。

さらに2026年6月8日には、2027年3月31日をもって純烈を卒業することを発表。11月3日現在は卒業まで約5か月となり、グループでの最後の活動にも注目が集まっている。四股名の由来、105キロまで増えた体重、けがによる引退、俳優デビューから純烈での活躍まで、白川裕二郎の異色のキャリアを時系列で整理する。

【結論】白川裕二郎は本当に元力士!朝日山部屋での現役時代とは

白川裕二郎力士

白川裕二郎は、芸能活動のために相撲経験をアピールしている人物ではない。実際に大相撲の世界に入り、朝日山部屋で力士として活動していた元力士である。

1976年12月11日生まれ、神奈川県出身。高校卒業後に相撲界へ進み、1995年9月場所に本名の白川で初土俵を踏んだ。その後、1996年7月場所から「綱ノ富士」という四股名を名乗っている。

2018年にデイリースポーツが報じた本人のテレビ出演時の発言でも、現役時代の持病だった腰痛が悪化し、1年ほどで引退した経緯が紹介されている。2022年のスポニチ報道でも、元力士であることや四股名、最高位について具体的に取り上げられた。

朝日山部屋への入門は柔道がきっかけ

白川が相撲界に入るきっかけとなったのは、柔道の町道場に通っていたことだった。

日刊SPA!の連載「純烈物語」に掲載された本人への取材によると、通っていた柔道場と接骨院にはつながりがあり、そこを訪れた朝日山部屋の先々代親方のおかみさんが、稽古に励む白川の姿に目を留めたという。

おかみさんが相撲への関心を尋ねたところ、白川自身も力士になりたいという夢を持っていた。話を聞いた親方が数日後に自宅を訪れ、入門を勧めたことが角界入りにつながった。

つまり、芸能界から相撲に挑戦したのではなく、子どもの頃から抱いていた相撲への憧れを実現する形で力士になったのである。

千代の富士への憧れが相撲人生の原点

白川が特に憧れていた力士は、昭和の大横綱として知られる千代の富士だった。

両親も相撲好きで、幼い頃から家族でNHKの大相撲中継を見ていたという。そうした家庭環境もあり、白川の中では力士になることが自然な将来の夢になっていた。

後に純烈のメンバーとなる白川は、俳優や歌手として知られるようになったが、その原点には千代の富士に憧れて土俵に上がった少年時代がある。

【四股名の由来】綱ノ富士は地元・綱島と千代の富士から生まれた名前

白川裕二郎の力士時代を語るうえで、特に興味深いのが「綱ノ富士」という四股名だ。

この名前には、本人の出身地と憧れの横綱という2つの要素が込められている。

「綱」は横浜市港北区の綱島から

白川の出身地は神奈川県横浜市港北区の綱島。四股名の「綱」は、この地名から取られたものだ。

本人は2026年4月放送のBSフジ「飯島直子の今夜一杯いっちゃう?」で、四股名の由来について説明している。

地元の綱島には世話になったという思いがあり、その地名から「綱」の文字を取り入れたという。

「富士」は憧れの千代の富士から

一方、「富士」は大好きだった横綱・千代の富士に由来する。

本人の説明によると、千代の富士と同じ「富士」の文字を四股名に入れたいという思いがあった。そこに地元の「綱」を組み合わせた結果、「綱ノ富士」という名前が誕生した。

2026年4月の番組では、本人が横綱のような立派な名前にしてしまったと振り返る場面もあった。現役時代の最高位は序二段99枚目だったが、四股名には大きな夢と憧れが込められていたのである。

力士時代の体重は105キロ!毎日ご飯一升を食べた時期も

現在の白川は、所属事務所の公式プロフィールによると身長185センチ、体重74キロ。すらりとした体格と整った顔立ちが印象的だ。

しかし、力士時代は体重105キロに達していた。

2022年6月21日付のスポニチによると、白川はフジテレビ系「ポップUP!」に出演した際、当初は75~76キロほどだった体重が、毎日ご飯を一升食べる生活を経て105キロまで増えたと明かした。

2026年4月のBSフジの番組でも、力士時代の食生活や体重について改めて語っている。

このエピソードからも、単に体格が大きかったというだけでなく、力士として身体を作るために食事や稽古に取り組んでいたことが分かる。

【経歴・年表】1995年初土俵から1996年引退までの全記録

白川裕二郎の相撲人生は短かったものの、初土俵から引退までの経歴には明確な節目がある。特に、初土俵、最高位への昇進、四股名の変更、けがによる引退という流れを押さえると、現役時代の全体像が分かりやすい。

白川裕二郎の力士時代プロフィール
項目 内容 補足
本名 白川裕二郎 本名で初土俵
所属部屋 朝日山部屋 高校卒業後に入門
初土俵 1995年9月場所 当初は本名の白川
四股名 綱ノ富士 1996年7月場所から改名
最高位 序二段99枚目 1996年5月場所
力士時代の体重 約105キロ 本人がテレビ番組で説明
引退 1996年9月場所 けがが影響
生涯戦績 16勝12敗14休 7場所・前相撲を含む
初土俵は1995年9月場所

白川が初土俵を踏んだのは1995年9月場所。最初は現在知られている「綱ノ富士」ではなく、本名の白川で土俵に上がっていた。

力士としての番付を上げていく中で、1996年5月場所には最高位となる序二段99枚目に到達した。

その後、1996年7月場所から四股名を綱ノ富士に変更。名前が変わった時期と引退までの期間が短かったこともあり、綱ノ富士という名前での現役生活は長くなかった。

1996年9月場所で現役引退

1996年9月場所を最後に、白川は相撲界を離れた。

初土俵から引退まで約1年間。大相撲の世界で長く活躍するという夢は、けがによって途切れることになった。

日刊SPA!の取材記事では、生涯戦績は16勝12敗14休、前相撲を含めて7場所と紹介されている。現役生活の短さを数字でも確認できる。

【引退理由を検証】腰痛とけがが力士人生を終わらせた背景

白川裕二郎が相撲を引退した主な理由は、腰痛を含む身体のけがだった。

2018年2月6日付のデイリースポーツは、白川が以前から抱えていた腰痛が悪化し、約1年で相撲界を去ったと報じている。また、2022年のスポニチも、けがによる入門約1年での引退を伝えている。

もともとの腰の不調に稽古の負担が重なった

相撲は、立ち合いで相手とぶつかり、組み合いながら重心を維持する競技だ。腰には大きな負荷がかかり、日々の稽古でも身体を酷使する。

白川はもともと腰に不調を抱えていたとされ、稽古を続ける中で痛みが悪化した。結果として、力士として土俵に立ち続けることが難しくなった。

本人の取材記事でも、けがによって横綱を目指す夢が断たれた経緯が紹介されている。

引退後も身体のけがとは無縁ではなかった

相撲引退後も、白川は芸能活動の中で身体のコンディションと向き合ってきた。

日刊スポーツの2020年11月24日付報道によると、白川は左肩の腱板断裂により手術を受けた。当時、所属事務所は短期間の入院と12月1日の仕事復帰を予定していると説明していた。

ただし、この左肩の手術は2020年の出来事であり、1996年の相撲引退の直接的な理由とは別のものだ。両者を混同しないことが、経歴を正しく理解するポイントになる。

引退時には母親も涙を流した

日刊SPA!の「純烈物語」で白川本人は、相撲をやめたとき、母親が涙を流したことを振り返っている。

母親は息子が相撲界に入ったことを喜んでいた。白川自身も親孝行をしたいという思いを持って相撲に取り組んでいたため、夢を諦めることは本人だけでなく家族にとっても大きな出来事だった。

その後、アルバイトなどを経験しながら将来を模索し、母親の勧めもあって俳優の道へ進むことになる。

【若い頃の画像・俳優デビュー】元力士からハリケンジャーのカブトライジャーへ

白川裕二郎の若い頃を知るうえで、相撲時代の写真と俳優デビュー後の姿を比較すると、キャリアの変化がよく分かる。

力士時代の写真はテレビ番組でも紹介された

白川の若い頃の力士画像については、2022年6月21日放送のフジテレビ系「ポップUP!」で当時の写真が紹介されたことが、スポニチの記事で報じられている。

その写真に関連して本人が語ったのが、75~76キロから105キロまで体重が増えたというエピソードだ。

現在のスリムな姿を見慣れているファンにとっては、105キロの力士時代との違いが印象に残る話題となった。

また、2026年4月のBSフジ「飯島直子の今夜一杯いっちゃう?」でも、当時の四股名や体格、相撲部屋での経験について話している。

2002年『忍風戦隊ハリケンジャー』で俳優デビュー

相撲を引退した白川は、劇団俳優座の研修生を経て俳優の道に進んだ。

大きな転機となったのが、2002年放送のテレビ朝日系スーパー戦隊シリーズ『忍風戦隊ハリケンジャー』への出演だ。

白川が演じたのは、霞一甲/カブトライジャー。作品では霞兄弟の兄として登場し、主要キャラクターの一人を担った。

同作への出演によって、白川は俳優として広く知られるようになった。相撲界を離れてから数年で、今度はテレビの世界で新たなキャリアを築いたのである。

大河ドラマや映画、舞台にも活動を広げる

『ハリケンジャー』以降も白川の俳優活動は続いた。

所属事務所の公式プロフィールには、NHK大河ドラマ『功名が辻』の平野長泰役、『天地人』の中条景泰役、東海テレビの『牡丹と薔薇』の柏木雅也役などが掲載されている。

さらに舞台や映画にも出演し、俳優として幅広い経験を積んでいった。

相撲を辞めたことで人生の目標を失った時期を経て、俳優という新しい仕事を見つけたことが、後の純烈加入にもつながっていく。

【純烈での活躍と2026年現在】2027年3月31日に卒業する理由とは

白川裕二郎の芸能人生を大きく変えたのが、2007年の純烈結成だった。

リーダーの酒井一圭から声をかけられ、歌手として新しい挑戦を始めた白川。相撲、俳優、歌手という異なる分野を経験してきた人物だからこそ、純烈のリードボーカルとして独自の存在感を発揮してきた。

2007年の結成から2018年の紅白初出場へ

純烈は2007年に結成され、3年間の準備期間を経て2010年6月23日に「涙の銀座線」でメジャーデビューした。

結成当初から順調だったわけではない。全国の健康センターやスーパー銭湯などで地道にステージを重ね、ファンを増やしていった。

2018年には『第69回NHK紅白歌合戦』に初出場。以降、2025年まで8年連続で紅白歌合戦に出場している。

白川は結成時からのオリジナルメンバーであり、リードボーカルとしてグループを支えてきた。

2026年6月8日に卒業を正式発表

2026年6月8日、白川は純烈を2027年3月31日をもって卒業すると発表した。

同日の記者会見では、卒業について以前からメンバーに相談していたことや、2025年10月に母親を亡くしたことが決断に影響したと説明している。

テレビ朝日などの報道によると、本人は母親の死を経験したことで、純烈を続けるモチベーションが以前とは変わったと語った。

ただし、卒業は突然思いついたものではない。本人によれば、約5年前からメンバーに意思を伝えていたという。長い時間をかけて考えた末の決断だった。

「一度立ち止まり肉体的にも精神的にもしっかりと充電をさせていただき、また皆様の場所に純烈としてではなく白川裕二郎として戻ってきたいと思います」

これは2026年6月8日に所属事務所の公式サイトで公開された本人のメッセージに記された言葉だ。

卒業後も所属事務所は変わらない

今回の発表で注目したいのは、純烈を卒業した後も白川がG-STAR.PROに所属し続ける点だ。

所属事務所の公式発表では、卒業後は本人の時間や家族との時間を大切にし、今後の活動については本人のペースを尊重すると説明されている。

したがって、2027年3月の卒業は芸能界引退や事務所退所を意味するものではない。

本人も会見で、十分に充電した後に再びファンの前で歌う機会があればと前向きな意向を示している。一方、具体的なソロ活動の開始時期や仕事の内容は、今後の発表を待つ段階だ。

2027年1月から3月まで卒業カウントダウンライブを開催

2026年10月28日には、純烈の公式サイトで「純烈 白川裕二郎卒業カウントダウンライブ in 湯~とぴあ宝」の開催が発表された。

2027年1月から3月まで毎月1回、愛知県名古屋市の湯~とぴあ宝で開催される予定となっている。

公式発表による開催日程は次のとおり。

  • 2027年1月13日(水)
  • 2027年2月8日(月)
  • 2027年3月10日(水)

各日とも13時開演と18時開演の2公演が予定されている。入場料金は訂正後の公式案内で、入館料とライブ料金を合わせて5,800円。チケットは2026年11月30日12時から、湯~とぴあ宝の公式LINEチケットで販売予定とされている。

卒業発表から約5か月が経過した11月現在、白川は引き続き純烈のメンバーとして活動している。残された期間のステージが、ファンにとって大切な時間になることは間違いない。

【プロの結論】白川裕二郎の経歴から見える異色のキャリアと転身の意味

白川裕二郎の経歴を振り返ると、単なる元力士という肩書きだけでは説明できない、何度も人生の方向を変えてきた人物像が浮かび上がる。

千代の富士に憧れて大相撲の世界へ入り、朝日山部屋で綱ノ富士を名乗った。しかし、腰痛やけがによって現役生活は約1年で終了。その後、俳優に転身し、『忍風戦隊ハリケンジャー』で注目を集め、最終的には純烈のリードボーカルとして紅白歌合戦の舞台に立った。

興味深いのは、これらの転身がそれぞれ独立した出来事ではないことだ。

相撲時代には母親に喜んでもらいたいという思いがあり、俳優時代にも仕事を通して親孝行したいという気持ちがあった。純烈への加入も、酒井一圭からの「紅白に出たら親孝行できるのではないか」という誘いがきっかけだった。

つまり、相撲、俳優、歌手という異なる仕事の背景には、家族への思いや人生を切り開こうとする姿勢が一貫して存在している。

白川裕二郎の力士時代を調べる際に押さえたい3つの判断基準
  • 元力士という経歴:実際に朝日山部屋に所属し、初土俵から引退までの記録がある。単なる相撲経験者ではない。
  • 綱ノ富士という四股名:綱島と千代の富士に由来する本人の説明があり、名前の背景も明確になっている。
  • 2027年の卒業:純烈卒業は決定しているが、芸能界からの引退や事務所退所とは異なる。今後の活動は本人と所属事務所からの発表が判断材料になる。

若い頃の力士画像を探す場合も、本人が出演したテレビ番組で紹介された写真や、当時の経歴を扱った新聞・芸能報道を手がかりにすると、俳優時代の写真との混同を避けやすい。

白川裕二郎の力士時代と現在に関するよくある質問(FAQ)

Q1:白川裕二郎は本当に大相撲の力士だった?
A1:本当です。高校卒業後に朝日山部屋へ入門し、1995年9月場所に初土俵を踏みました。四股名は綱ノ富士で、最高位は序二段99枚目です。

Q2:白川裕二郎の力士時代の四股名・綱ノ富士の由来は?
A2:出身地の横浜市港北区綱島から「綱」を取り、憧れの横綱・千代の富士から「富士」を取った名前です。本人が2026年4月のBSフジの番組で説明しています。

Q3:白川裕二郎の力士時代の体重は何キロ?
A3:最大で約105キロです。本人は毎日ご飯を一升食べて体重を増やしたと、2022年のフジテレビ系「ポップUP!」で明かしています。

Q4:白川裕二郎はなぜ相撲を引退した?
A4:持病だった腰痛などのけがが悪化したためです。1996年9月場所を最後に、約1年間の力士生活を終えました。

Q5:白川裕二郎は現在も純烈のメンバー?
A5:2026年11月3日現在は純烈のメンバーです。ただし、2027年3月31日をもって卒業することが2026年6月8日に正式発表されています。

Q6:白川裕二郎は純烈卒業後に芸能界を引退する?
A6:芸能界引退は発表されていません。卒業後もG-STAR.PROに所属し、心身を充電した後、白川裕二郎として再びファンの前に戻りたいという意向を示しています。

白川裕二郎は、朝日山部屋に所属していた正真正銘の元大相撲力士だ。1995年9月場所に初土俵を踏み、四股名は綱ノ富士。最高位は序二段99枚目で、腰痛やけがの影響から1996年9月場所を最後に引退した。

綱ノ富士という名前には、地元・綱島への思いと、憧れだった千代の富士への敬意が込められている。力士時代には体重105キロまで増えたというエピソードもあり、現在の姿からは想像しにくい一面を持つ。

その後は俳優として『忍風戦隊ハリケンジャー』のカブトライジャーを演じ、2007年には純烈の結成メンバーに加わった。2018年から2025年まで8年連続で紅白歌合戦に出場し、リードボーカルとしてグループを支えてきた。

2026年11月現在、最大の注目点は2027年3月31日の純烈卒業だ。ただし、所属事務所に残ることは決まっており、本人も充電後の活動に意欲を示している。

力士、俳優、歌手と、何度も新しい道を切り開いてきた白川裕二郎。綱ノ富士として土俵に立った青年が、次にどのような姿を見せてくれるのか。2027年3月までの純烈での活動と、その後の新たな挑戦に引き続き注目したい。

主な取材・確認資料: 純烈公式プロフィール・所属事務所の卒業発表、日刊SPA!「純烈物語」、スポニチ、日刊スポーツ、デイリースポーツ、テレビ朝日ニュース、ORICON NEWS、東映公式作品情報。

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映画・ドラマの公開情報を担当。配給会社のプレスシートと公式サイト記載を基準に、あらすじと配役をまとめます。

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