佐々木友次(ささき・ともじ)は、太平洋戦争末期、陸軍最初の航空特攻隊の一つである「万朶隊(ばんだたい)」に所属し、9回の特攻出撃を命じられながら、9回とも生還した操縦士です。当時21歳だった佐々木は、敵艦に飛行機ごと体当たりするよう命じられても、爆弾を投下して帰還する道を選びました。その生還を支えた重要人物が、隊長の岩本益臣大尉でした。
なぜ佐々木は何度も死を命じられたのでしょうか。上官との関係、爆弾を投下して帰還できた理由、北海道で過ごした幼少期、戦後の生活、そして2016年2月に92歳で亡くなるまでの歩みを、鴻上尚史の著書『不死身の特攻兵』や『青空に飛ぶ』、戦争記録、ドキュメンタリーなどを手がかりに振り返ります。
【生い立ち】佐々木友次は北海道の農家出身!幼少期から飛行機に憧れていた

佐々木友次は、1923年(大正12年)6月27日、北海道石狩郡当別村(現在の当別町)に生まれました。
農家に生まれ、幼い頃から飛行機に強い関心を持っていた少年です。後に特攻隊員として知られることになる佐々木の人生は、軍人としての使命感よりも、空を飛ぶことへの純粋な憧れから始まりました。
飛行機への憧れが操縦士への道を開いた佐々木が育った当別村では、新聞社の飛行機が上空を飛ぶ光景が見られました。
子どもの頃から空を飛ぶ飛行機を眺め、操縦士になることを夢見ていたと伝えられています。
やがて17歳になると、逓信省航空局の仙台地方航空機乗員養成所に進みます。
この養成所は民間航空の人材育成を掲げていましたが、当時は陸軍の予備役搭乗員を養成する役割も担っていました。
訓練生活は厳しく、軍隊式の規律や体罰も存在したとされています。
それでも佐々木は操縦技術を身につけ、飛行機に乗るための道を進み続けました。
鉾田教導飛行師団で急降下爆撃の技術を磨く養成所を経た佐々木は、1943年に茨城県の鉾田陸軍飛行学校へ進みます。
そこで搭乗したのが、九九式双発軽爆撃機です。
佐々木は急降下爆撃などの訓練を重ね、操縦士として腕を磨きました。
特に優れていたのは、機体を扱う技術と、状況に応じて判断する能力です。
後に万朶隊の一員に選ばれた背景には、こうした操縦技術がありました。
佐々木は、最初から死を目的とする特攻に憧れていたわけではありません。飛行機を操縦し、技術を生かして任務を果たすことを目指していた人物だったのです。
【万朶隊とは】陸軍初の特攻隊に選ばれた佐々木友次の経歴と戦歴
1944年、太平洋戦争の戦局は日本にとって厳しい状況に追い込まれていました。
フィリピン方面では連合軍の反攻が進み、日本軍は航空機を使った特攻作戦を本格化させます。
その陸軍航空特攻の第一陣として編成されたのが、万朶隊と富嶽隊でした。
万朶隊は鉾田教導飛行師団を母体とし、九九式双発軽爆撃機を使用する部隊です。
万朶隊の編成と岩本益臣隊長1944年10月、万朶隊の編成が進み、岩本益臣大尉が隊長に選ばれました。
岩本は当時28歳。操縦と爆撃の技術に優れた人物で、飛行機や搭乗員を一度の攻撃で失う特攻戦術に疑問を持っていました。
特攻機として改修された航空機は、通常の爆撃機とは異なり、爆弾を投下して帰還することを前提としていませんでした。
しかし岩本は、搭乗員の技術を生かすためには、体当たりではなく通常の爆撃によって敵艦を攻撃する方法が合理的だと考えていました。
この考え方が、佐々木の運命を大きく左右します。
佐々木友次の経歴・戦歴年表| 時期 | 出来事 | 主な内容 |
|---|---|---|
| 1923年6月27日 | 誕生 | 北海道石狩郡当別村 |
| 17歳頃 | 航空機乗員養成所へ | 仙台で操縦技術を学ぶ |
| 1943年 | 鉾田へ | 陸軍飛行学校で爆撃訓練 |
| 1944年10月 | 万朶隊に所属 | 岩本益臣大尉が隊長に就任 |
| 1944年11月5日 | 岩本隊長戦死 | 本格的な特攻作戦の前に隊長を失う |
| 1944年11月12日 | 初回の特攻作戦 | 佐々木は生還 |
| 1944年11月〜12月 | 出撃を繰り返す | 9回出撃し、9回生還と記録される |
| 2015年 | 鴻上尚史が取材 | 病床で5回にわたりインタビュー |
| 2016年2月9日 | 死去 | 92歳 |
| 2017年 | 関連書籍が刊行 | 『青空に飛ぶ』『不死身の特攻兵』 |
なお、万朶隊と富嶽隊は、いずれも陸軍航空特攻の初期に編成された部隊です。「陸軍初の特攻隊」という呼び方は、万朶隊が陸軍最初期の航空特攻部隊として位置づけられていることを指します。
また、岩本隊長は1944年11月5日、フィリピンへの移動中に敵機の攻撃を受けて戦死しました。佐々木にとって、技術と考え方の両面で大きな影響を与えた指揮官を、作戦の本格化前に失ったことになります。
【9回生還の理由】爆弾を投下して帰還できたのは岩本隊長の判断だった
佐々木友次が9回の出撃から生還できた理由を考えるうえで、最も重要なのが岩本益臣隊長の存在です。
単純に運が良かったからでも、敵の攻撃をすべて偶然回避できたからでもありません。
そこには、航空機の改修、操縦技術、戦術に対する合理的な考え方がありました。
爆弾を投下できるように機体を再改修特攻仕様に改修された航空機は、爆弾を搭載したまま敵艦に突入することを前提としていました。
通常の爆撃機であれば、目標に爆弾を投下した後、基地に戻るという運用が可能です。
しかし特攻機では、その選択肢が制限されていました。
岩本は、この仕様に疑問を抱きます。
優秀な操縦士と航空機を一度の攻撃で失うよりも、爆弾を命中させて帰還させ、再び攻撃に向かわせる方が戦術的に合理的だと考えたのです。
そこで岩本は、上級司令部の許可を得ないまま、爆弾を投下できるよう機体を再改修させました。
この変更によって、搭乗員は機体ごと敵艦に突入する以外の攻撃方法を選べるようになります。
講談社の『不死身の特攻兵』紹介記事でも、岩本が改修の理由を「自分の生命と技術を、最も有意義に使い生かし、できるだけ多くの敵艦を沈めたいからだ」と説明した記録が紹介されています。
つまり岩本は、単に部下を助けたかっただけではありません。
操縦士の生命と技能を、使い捨てにするのではなく、継続して戦力として生かそうとしたのです。
佐々木はなぜ体当たりを拒み続けたのか佐々木は、操縦士として訓練してきた技術を使い、敵艦に爆弾を命中させることを目指しました。
彼にとって重要だったのは、自分が死ぬことではなく、操縦士として与えられた任務を果たすことでした。
その考え方は、後に上官から厳しく追及されても変わりませんでした。
もちろん、爆弾を投下すれば必ず敵艦を撃沈できるわけではありません。戦闘中の天候や敵の防御、機体の状態など、帰還を左右する要素は数多く存在します。
佐々木の生還には、操縦技術だけでなく、任務の状況を判断する能力や偶然の要素も関係していたと考えられます。
9回という数字には数え方の違いもある佐々木の出撃回数については、関連資料の紹介で8回と9回の両方の表記を見かけることがあります。
講談社の鴻上尚史インタビュー記事では、8回と紹介した理由について、1944年11月25日に受けた3回目の出撃命令を数えていなかったためと注記されています。
そのため、佐々木の経歴を扱う際には、出撃命令の数え方も意識する必要があります。
本記事では、講談社の著書紹介や関連資料で広く採用されている「9回出撃・9回生還」という整理に基づいています。
【上官との関係】岩本益臣隊長と佐々木友次を結んだ信念、そして厳しい出撃命令
佐々木の生涯を理解するには、上官との関係を二つに分けて考える必要があります。
一つは、佐々木の操縦技術と生命を尊重した岩本益臣隊長との関係。
もう一つは、帰還を許さず、体当たりによる攻撃を繰り返し命じた上級指揮系統との関係です。
岩本益臣隊長は部下の技術を使い捨てにしなかった岩本は、特攻という戦術に批判的な考えを持っていました。
自らの操縦技術を磨いてきた人間が、爆弾を抱えた飛行機とともに一度の攻撃で命を失うことは、航空戦力の観点からも合理的ではありません。
岩本の考え方は、佐々木の操縦士としての姿勢にも通じるものでした。
講談社が紹介した記録には、岩本が隊員に対し、爆弾を命中させて帰還するよう伝えた内容が残されています。
「出撃しても爆弾を命中させて帰ってこい」
この言葉は、佐々木の行動を理解するうえで重要です。
ただし、岩本は1944年11月5日に戦死しており、その後も佐々木を直接指揮し続けたわけではありません。
岩本が残した考え方と、上級司令部からの命令との間に、大きな隔たりが生まれていきます。
生還するたびに厳しくなる上官の要求佐々木は出撃して帰還するたびに、上官から厳しい追及を受けるようになりました。
特攻は本来、搭乗員が生きて帰ることを前提としない作戦です。
そのため、爆弾を投下して戻ってきた佐々木の行動は、軍上層部の期待と衝突しました。
当時の報道では、佐々木は敵艦に体当たりして戦死したと扱われたこともあります。
生きて帰ってきたにもかかわらず、すでに戦死したと発表された人物が、再び出撃を命じられるという異常な状況が生まれていたのです。
講談社の記事では、軍参謀長から「必ず死んでこい」と命じられた状況や、佐々木がそれでも爆撃による攻撃を選んだ経緯が紹介されています。
佐々木が上官に示した操縦士としての答え佐々木の考えをよく表しているのが、講談社の書籍紹介で取り上げられた上官との会話です。
体当たりをせずに帰還することへの批判を受けた際、佐々木は次のように答えています。
「いろいろ言われますが、船を沈めりゃ文句ないでしょう」
この言葉には、佐々木の考え方が端的に表れています。
敵艦を攻撃することが任務なら、必ずしも飛行機ごと突入する必要はない。爆弾を命中させて目的を達成すればよいという考え方です。
ただし、この発言を、佐々木が実際に敵艦を何隻も撃沈したという戦果の証明と混同してはいけません。
重要なのは、彼が死ぬこと自体を任務の成功条件とする考え方に従わなかった点です。
【戦後の生活と死去】2016年2月9日、92歳で迎えた最期
9回の出撃から生還した佐々木は、戦争が終わった後も長い人生を歩みました。
しかし、戦争体験を積極的に語り続けたわけではありません。
むしろ、自分の経験を公に話すことには慎重でした。
なぜ戦後は特攻体験を語らなかったのか戦後の佐々木は、特攻隊員としての経験について、長年にわたり多くを語りませんでした。
講談社の紹介記事によれば、終戦から9年後の高木俊朗による取材を除くと、2015年に鴻上尚史が取材するまで、本人の証言を聞く機会は限られていました。
その背景には、戦友を失ったことや、特攻という経験を簡単に言葉にできない事情があったと考えられます。
生還したことを英雄的な成功として語るだけでは、亡くなった仲間たちの経験を十分に伝えられないという問題もありました。
また、戦時中に生還者が置かれた立場は、必ずしも温かいものではありませんでした。
特攻で戦死することが当然視された環境では、生き残ったこと自体が周囲から理解されにくい場合もあったのです。
鴻上尚史との5回のインタビュー2015年、作家・演出家の鴻上尚史は、北海道の病院に入院していた佐々木を訪ねました。
鴻上は以前から佐々木の存在を知り、どうしても本人に会いたいと考えていました。
最初は本人が話すことを望んでいなかったものの、鴻上は直接会うことを希望し、最終的に5回のインタビューを実現します。
その取材で印象的だったのは、なぜ9回も帰還できたのかという質問に対する佐々木の回答でした。
「いや、やっぱりそれは寿命ですよ。寿命に結びつけるほかないの。」
鴻上は、何度も質問を重ねました。
しかし、佐々木は自分の生還を特別な英雄的行動として説明するのではなく、寿命という言葉で受け止めていました。
この回答は、佐々木の人生を理解するうえで非常に重要です。
9回生還した事実を誇示するのではなく、亡くなった仲間たちと自分の運命を、静かに受け止めていたことが伝わります。
2016年2月9日に92歳で死去佐々木友次は、2016年2月9日、92歳で亡くなりました。
鴻上との5回目のインタビューから約2か月後のことでした。
本人が生前に語った証言は、後世に残された貴重な戦争体験の記録となりました。
鴻上の取材は、佐々木が亡くなる直前の時期に実現したからこそ、本人の肉声を伝える重要な資料となっています。
【不死身の特攻兵を知る作品】鴻上尚史『青空に飛ぶ』とドキュメンタリー
佐々木友次の生涯は、本人の証言だけでなく、書籍や映像作品を通しても伝えられています。
特に注目したいのが、鴻上尚史によるノンフィクションと小説、そして本人の晩年の映像証言を中心に構成されたドキュメンタリーです。
『不死身の特攻兵 軍神はなぜ上官に反抗したか』著者:鴻上尚史/講談社現代新書/2017年11月刊行
佐々木の生涯、万朶隊の編成、岩本隊長との関係、特攻の実態、本人へのインタビューをまとめた作品です。
この作品の特徴は、佐々木本人の証言だけでなく、高木俊朗の『陸軍特別攻撃隊』などの戦史資料を参照していることです。
特攻を美談として扱うのではなく、命令を受ける側の心理や、軍組織の問題まで掘り下げています。
昭和館デジタルアーカイブにも書誌情報が登録されており、戦争を知るための関連資料として位置づけられています。
『青空に飛ぶ』は佐々木の体験を題材にした小説著者:鴻上尚史/講談社/2017年8月刊行
佐々木友次の実体験を題材に、現代の少年と戦争を生き抜いた人物との出会いを描いた小説です。
物語の中心となるのは、中学2年生の萩原友人という少年です。
いじめに苦しむ友人が、札幌で入院していた佐々木と出会い、9回の特攻から生還した人物の人生に触れていきます。
過去の戦争と現代の少年の苦悩を結びつけ、「生きること」を問い直す作品です。
ただし、小説には創作上の人物や展開が含まれます。佐々木の実際の経歴や発言を調べる場合は、ノンフィクションの『不死身の特攻兵』と区別する必要があります。
ドキュメンタリー『ラストメッセージ~不死身の特攻兵 佐々木友次伍長~』佐々木の肉声を知るうえで重要なのが、上松道夫監督によるドキュメンタリーです。
作品名は『ラストメッセージ~不死身の特攻兵 佐々木友次伍長~』。
2021年8月15日にテレビ朝日系列で放送された作品をもとに、本人のインタビュー映像や関係者の証言を交えて構成されています。
主な特徴は次のとおりです。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 作品名 | ラストメッセージ~不死身の特攻兵 佐々木友次伍長~ |
| 製作年 | 2021年 |
| 監督 | 上松道夫 |
| 上映時間 | 98分 |
| ナレーション | 徳重聡・星野知子 |
| 主な内容 | 佐々木本人の晩年の証言と特攻の実態 |
| テレビ放送 | 2021年8月15日 |
| 劇場上映 | 2024年8月15日公開情報あり |
この作品では、佐々木が亡くなる約半年前の2015年に病床で語った証言が取り上げられています。
特に、戦争とは何だったのか、特攻とは何だったのかという問いに対する本人の言葉は、書籍とは異なる重みを持っています。
戦争を生き延びた人の表情や声を通して、文字だけでは伝わりにくい体験を知ることができます。
【特攻隊生還者の実態】佐々木友次の生涯から見える戦争の本当の姿
佐々木の生涯を振り返る際、最も注意したいのは「9回生還した不死身の英雄」という一面的な見方です。
確かに、9回出撃して9回帰還した経歴は極めて異例です。
しかし、その数字だけを取り上げると、特攻隊員が置かれていた現実や、戦争によって失われた多くの命が見えにくくなります。
特攻は本当に本人の志願だったのか特攻隊員については、本人が志願して出撃したというイメージが広く知られています。
しかし、実際には隊員の年齢、軍隊教育、所属部隊、指揮官との関係などによって事情は異なっていました。
鴻上尚史は、佐々木への取材や戦史資料の調査を通して、志願という言葉だけでは説明できない軍組織の構造を指摘しています。
本人が自由に選択できる状況だったのか、上官の命令を拒否できたのかという問題は、特攻の実態を理解するうえで欠かせません。
佐々木のケースでは、帰還を繰り返しても出撃命令が続きました。
この事実は、戦場で個人の意思がどれほど制限されていたかを示しています。
生還した人が必ずしも歓迎されたわけではない特攻隊員は、戦死を前提とする任務に送り出されていました。
そのため、帰還した兵士は、単純に生き残ったことを喜ばれるとは限りません。
佐々木の場合も、戦死したと報じられた後に帰還し、再び出撃を命じられるという特殊な状況に置かれました。
生還者の証言には、戦友を失った悲しみや、生き残ったことに対する複雑な思いが表れています。
佐々木が戦後長い間、自らの体験を積極的に語らなかったことも、こうした背景と切り離して考えることはできません。
佐々木が残した言葉にある本当の意味晩年の佐々木は、戦争について次のように語っています。
「そんなものでない、悲惨なものですよ。もう自分というのが無くなってしまうんだからね。」
これは、ドキュメンタリーの紹介資料に掲載された本人の証言です。
特攻を精神論や英雄物語として語るだけでは、戦場で個人が置かれていた状況を理解できません。
佐々木が伝えたかったのは、戦争によって人間が自分自身の意思や尊厳を失っていく現実だったのと考えられます。
9回生還した佐々木を英雄視するだけでは見落とすもの佐々木は確かに、異例の生還を果たした人物です。
しかし、同じ万朶隊に所属した仲間たちの多くは戦死しました。
岩本隊長も、佐々木の初回出撃より前に命を落としています。
佐々木だけを特別な存在として持ち上げると、同じ部隊で戦った仲間たちの人生や、特攻を命じた軍組織の責任が見えなくなります。
佐々木の生涯から学ぶべきなのは、単に「どんな状況でも生き残ればよい」という教訓ではありません。
人間の生命を組織の都合で消費する仕組みそのものを問い直すことです。
【佐々木友次に関するよくある質問(FAQ)】
Q1:佐々木友次は本当に9回特攻に出撃して、すべて生還したのですか?
A1:はい。鴻上尚史の『不死身の特攻兵』などでは、9回出撃して9回生還した人物として紹介されています。ただし、資料によっては1944年11月25日の3回目の出撃命令を数えず、8回とする記述もあります。
Q2:佐々木友次が9回生還できた最大の理由は何ですか?
A2:万朶隊の岩本益臣隊長が、特攻仕様の航空機を爆弾投下可能な状態に再改修させたことが重要です。佐々木自身の優れた操縦技術や判断力も、生還を支えた要因でした。
Q3:岩本益臣隊長は佐々木友次と一緒に生還したのですか?
A3:いいえ。岩本は1944年11月5日、特攻作戦の本格化前に戦死しました。佐々木が爆弾を投下して帰還するための方針を示した重要人物です。
Q4:佐々木友次はいつ亡くなったのですか?
A4:2016年2月9日です。92歳でした。亡くなる約2か月前まで、作家の鴻上尚史によるインタビューを5回受けていました。
Q5:佐々木友次を題材にした作品は何ですか?
A5:代表的な作品は、鴻上尚史のノンフィクション『不死身の特攻兵 軍神はなぜ上官に反抗したか』と小説『青空に飛ぶ』です。また、本人の晩年の証言を収録したドキュメンタリー『ラストメッセージ~不死身の特攻兵 佐々木友次伍長~』もあります。
Q6:佐々木友次の戦後の生活や家族について詳しい情報はありますか?
A6:戦後は自らの特攻体験を積極的に語ることが少なく、私生活についても広く知られている情報は限られています。公に確認できる重要な記録としては、高木俊朗の戦史取材や2015年の鴻上尚史によるインタビューがあります。
佐々木友次は、1923年に北海道当別村で生まれ、飛行機への憧れから操縦士を目指した人物です。
1944年には陸軍最初期の航空特攻隊である万朶隊に所属し、21歳で特攻作戦に参加しました。
9回の出撃からすべて生還できた背景には、岩本益臣隊長による航空機の再改修、佐々木自身の操縦技術、そして体当たりではなく爆弾を命中させるという合理的な判断がありました。
戦後は自らの経験を積極的に語らず、2015年に鴻上尚史の5回にわたる取材を受け、2016年2月9日に92歳で亡くなりました。
その証言は『不死身の特攻兵』や『青空に飛ぶ』、ドキュメンタリー作品を通して現在まで伝えられています。
【プロの結論】佐々木友次の生涯から読み取るべき3つのこと1. 命令と任務の目的は同じではない。 佐々木は、死ぬことそのものではなく、操縦士として敵艦を攻撃するという任務の目的を重視しました。
2. 優れた指揮官には現実を見る力が必要である。 岩本益臣は、精神論ではなく、操縦技術や航空機の価値を理解し、搭乗員の生命を守る選択肢を考えました。
3. 生還した人の証言は、戦争の実態を知るための重要な記録である。 佐々木の話を英雄物語として消費するのではなく、亡くなった仲間たちや、戦争を生み出した組織の構造まで考える必要があります。
佐々木友次が残した最も大きな意味は、9回生還したという数字だけではありません。
死ぬことを当然とする組織の中で、最後まで自分の技術と判断を手放さなかったこと。そして、戦後も長く語られなかったその経験が、晩年の証言によって私たちに伝えられたことです。
2016年に佐々木が亡くなってから10年となる2026年。戦争体験者の直接証言が失われていく今だからこそ、本人の言葉と歴史資料を残し、次の世代へ伝えていく意味は大きくなっています。
彼の生涯は、戦争の悲惨さと、個人の命を尊重することの意味を改めて考えさせる歴史的な証言です。
主な参考資料:講談社『不死身の特攻兵』『青空に飛ぶ』、昭和館デジタルアーカイブ、高木俊朗『陸軍特別攻撃隊』、戦争の記憶と記録を語り継ぐ映画祭、ピースおおさかの関連資料。