2026年現在、「二所ノ関親方」といえば、第72代横綱・稀勢の里として活躍した二所ノ関寛(本名・萩原寛)を指す。茨城県阿見町に二所ノ関部屋を構え、後進の育成に取り組んでいる。しかし、現在の親方につながる二所ノ関という名前には、100年以上にわたる相撲界の歴史と、かつての名門部屋を揺るがした後継者問題が刻まれている。
特に注目されるのが、1975年に発生した8代二所ノ関(元大関・佐賀ノ花)の死後の継承問題だ。横綱大鵬、17代押尾川(元大関・大麒麟)、部屋の大おかみ、そして関脇だった金剛。それぞれの立場が交錯した結果、金剛が8代の次女と婚約し、1976年9月に10代二所ノ関を襲名することで決着した。この出来事は、単なる親方の交代ではなく、二所ノ関一門の勢力関係にも影響を与えた歴史的な転換点だった。
【2026年最新】二所ノ関親方とは誰?現在の師匠と歴代の名跡

現在の二所ノ関親方は、元横綱・稀勢の里の二所ノ関寛である。
1986年7月3日生まれ、茨城県出身。第72代横綱として土俵に立ち、現役時代には幕内優勝2回、殊勲賞5回、敢闘賞3回、技能賞1回という実績を残した。
日本相撲協会の公式プロフィールでも、師匠の四股名は二所ノ関寛、現役時代のしこ名は稀勢の里と紹介されている。
現在の二所ノ関部屋は茨城県阿見町稀勢の里は現役引退後、指導者としての道を歩み始めた。
2021年に荒磯部屋を創設し、同年12月に伝統ある年寄名跡「二所ノ関」を襲名。部屋の名称も二所ノ関部屋に変更した。
その後、2022年6月には茨城県阿見町に新しい部屋を開設している。阿見町は稀勢の里の出身地である牛久市に隣接する地域であり、地元に根差した相撲部屋として新たなスタートを切った。
この経緯は阿見町の公式紹介ページにも記録されている。
つまり、現在の二所ノ関部屋は、かつて東京・両国に存在した旧二所ノ関部屋がそのまま存続しているわけではない。旧部屋が2013年に閉鎖された後、年寄名跡が別の親方へと引き継がれ、再び二所ノ関部屋という名称で活動するようになったものだ。
二所ノ関親方の歴代と年寄名跡二所ノ関という名前には、長い継承の歴史がある。
年寄名跡とは、引退した力士が日本相撲協会に親方として残るために必要となる伝統的な名称である。相撲部屋の名称と密接に結び付くことも多いが、年寄名跡の継承と部屋そのものの継承は必ずしも同じではない。
二所ノ関の歴代の主な継承者を整理すると、次のようになる。
- 初代・二所ノ関軍右衛門:文化4年(1807年)に名跡を名乗った人物。
- 5代・海山:友綱部屋から独立し、1909年に二所ノ関部屋を創設した。
- 6代・玉錦:第32代横綱。部屋を大きく発展させた。
- 7代・玉ノ海梅吉:関脇出身。力道山や琴ヶ濱らを育てた。
- 8代・佐賀ノ花勝巳:元大関。大鵬や大麒麟を育てた名師匠。
- 9代・十勝岩豊:8代の死後、暫定的に部屋を引き継いだ。
- 10代・金剛正裕:1976年9月に襲名し、2013年まで部屋を率いた。
- 11代・玉力道栄来:2013年に名跡を取得した。
- 12代・若嶋津六夫:2014年12月から2021年12月まで名跡を保持した。
- 13代・稀勢の里寛:2021年12月に襲名した現在の二所ノ関親方。
初代から4代までの名跡の歴史と、1909年に海山が創設した部屋の歴史には、区別して考えるべき部分がある。
墨田区立図書館が公開する相撲史資料でも、初代の名跡は1807年にさかのぼる一方、海山による部屋創設は1909年と整理されている。
この違いを理解すると、二所ノ関という名前が単なる一つの相撲部屋の名称ではなく、年寄名跡と部屋の系譜が重なり合った存在であることが分かる。
【二所ノ関部屋の歴史】玉錦から大鵬まで名門を築いた系譜
二所ノ関部屋の歴史は、明治、大正、昭和、平成をまたぐ。
その発展を語るうえで欠かせないのが、海山、玉錦、玉ノ海、佐賀ノ花という歴代の師匠たちだ。
1909年、海山が二所ノ関部屋を創設1909年(明治42年)、元関脇・海山が友綱部屋から内弟子を連れて独立し、二所ノ関部屋を創設した。
海山は1907年に二所ノ関の名跡を襲名しており、現役引退後に親方として部屋の運営に専念した。
この時期の重要な弟子が、後に第32代横綱となる玉錦である。
海山の死後、部屋の系譜はいったん粂川部屋預かりとなったが、1935年に玉錦が6代二所ノ関を襲名して再興した。
玉錦が名門部屋の基盤を築く当時は十分な稽古場もない規模だった部屋を、厳しい稽古によって発展させた。
玉錦の死後は、7代二所ノ関となった玉ノ海梅吉が部屋を継承する。
玉ノ海は力道山や芳の里、琴ヶ濱らを育てたことで知られる。
その後、花籠部屋、佐渡ヶ嶽部屋、片男波部屋などが分家独立し、二所ノ関一門は大きく広がっていった。
8代佐賀ノ花の時代に大鵬と大麒麟が成長戦後、8代二所ノ関を継いだのが元大関・佐賀ノ花勝巳だった。
佐賀ノ花の時代は、二所ノ関部屋の黄金期と重なる。
代表的な弟子が、第48代横綱・大鵬と大関・大麒麟である。
大鵬は1960年代の大相撲を代表する横綱となり、幕内優勝32回という圧倒的な記録を残した。
一方、大麒麟も大関まで昇進し、部屋の看板力士として活躍した。
こうした実力者を複数抱えていたことが、後に発生する後継争いを複雑にする一因となった。
師匠の後を誰が継ぐのか。現役時代の実績、部屋への貢献、親方としての経験、そして師匠の家族との関係が、それぞれ異なる方向を向いていたのである。
【後継争いの真相】大鵬が二所ノ関部屋の継承から退いた理由
二所ノ関部屋の後継問題を理解するには、8代二所ノ関と大鵬の関係を知る必要がある。
大鵬は、単に部屋の有力な弟子だったというだけではない。師匠から将来の後継者として期待されていた経緯があった。
1966年春、佐賀ノ花から持ち掛けられた縁談大鵬は自著の中で、現役だった1966年春に8代二所ノ関から縁談を持ち掛けられたことを明かしている。
その際、師匠から示されたのは、娘との結婚を承諾すれば、将来的に二所ノ関部屋の後継者として考えるという趣旨の話だった。
つまり、結婚と部屋の継承が結び付いた提案だったのである。
しかし、大鵬はこの縁談を断った。
このエピソードは、後に発生する後継者問題を考えるうえで重要な意味を持つ。
当時の二所ノ関部屋では、実力と実績を兼ね備えた大鵬が将来の後継候補として期待されていた一方、師匠の家族との関係も継承構想の一部になっていたからだ。
1975年、8代二所ノ関の死去で後継問題が表面化1975年3月28日、8代二所ノ関の佐賀ノ花が亡くなった。
これをきっかけに、部屋の後継者を誰にするのかという問題が一気に表面化した。
候補として名前が挙がったのは、主に次の人物だった。
- 横綱大鵬
- 元大関・大麒麟の17代押尾川
- 部屋に所属していた関脇・金剛
それぞれに後継者としての背景があった。
大鵬は横綱としての実績と知名度を持ち、大麒麟は大関経験者で、すでに17代押尾川を襲名して親方として活動していた。
金剛は部屋に所属する現役力士であり、8代の家族との関係が後の継承に大きく影響することになる。
しかし、8代の死後、関係者の意見は一致しなかった。
大鵬は後継候補から退く大鵬も後継候補として名前が挙がったものの、最終的には継承を辞退した。
背景には、部屋を巡る対立が長引いたことがある。
もともと大鵬は8代から縁談を受けていたものの、それを断っていた。また、1971年にはすでに大鵬部屋を創設して独立していた。
そうした経緯もあり、最終的に二所ノ関部屋を引き継ぐことにはならなかった。
大鵬の辞退によって候補が絞られたわけではない。むしろ、残された押尾川と金剛、そして8代の未亡人である大おかみとの意見調整が、次の焦点になった。
【17代押尾川と大おかみの対立】なぜ後継争いは長期化したのか
今回の継承問題で特に複雑だったのが、17代押尾川と8代二所ノ関の未亡人である大おかみの関係だ。
ここには、親方としての実績や部屋への貢献だけでは説明できない、部屋の運営と家族の意向という問題があった。
17代押尾川は元大関・大麒麟17代押尾川は、元大関・大麒麟である。
大麒麟は二所ノ関部屋で実績を積み、1974年11月場所限りで現役を引退した。その後、17代押尾川を襲名し、部屋付き親方となった。
大関まで昇進した実績を持ち、部屋の事情にも精通していたことから、後継者候補として有力視されていた。
周囲にも、押尾川がそのまま部屋を継承するのではないかと考える人がいた。
元力士の天龍源一郎も、後年の日刊スポーツの連載で、押尾川が継ぐものだと思っていた当時の状況を振り返っている。
大おかみが押尾川の継承に反対一方、8代二所ノ関の未亡人である大おかみは、押尾川への継承を認めなかった。
この意見の相違が、後継問題を長引かせる大きな要因になった。
大おかみが望んでいたのは、部屋の関脇だった金剛に跡を継がせることだった。
つまり、親方として経験を積んでいた大麒麟と、8代の家族が後継者として望んだ金剛という、異なる立場の候補が対立する構図が生まれたのである。
1975年9月、押尾川部屋が分家独立継承問題が解決しない中、金剛が8代二所ノ関の次女と婚約したことで、後継者問題は大きく動いた。
これに不満を抱いた17代押尾川は、1975年9月、支持する力士16人を率いて二所ノ関部屋からの独立を申し出た。
いわゆる押尾川事件である。
押尾川側の力士たちが分裂する形となり、名門部屋の内部に深い亀裂が生まれた。
この出来事は、後継者問題が単なる親方同士の意見の相違ではなく、所属力士の進退にも影響する問題だったことを示している。
当時の二所ノ関部屋にとって、誰が師匠になるかという判断は、部屋の組織そのものを左右する重大な問題だった。
【1975〜1976年の時系列】大鵬・押尾川・金剛の関係を整理
ここまでの出来事を時系列で整理すると、後継争いの構図がより明確になる。
| 時期 | 人物・出来事 | 継承問題への影響 |
|---|---|---|
| 1966年春 | 8代二所ノ関が大鵬に縁談を持ち掛ける | 娘との結婚と将来の部屋継承が結び付けられる |
| 1971年12月 | 大鵬部屋が独立 | 大鵬は独自の部屋を持つ |
| 1974年11月 | 大麒麟が現役引退 | 17代押尾川として親方になる |
| 1975年3月28日 | 8代二所ノ関が死去 | 後継者問題が本格化 |
| 1975年春 | 大鵬、押尾川、金剛が候補となる | 大おかみとの意見の相違も重なり混乱が続く |
| 1975年9月 | 金剛が8代の次女と婚約 | 金剛への継承が事実上決定的になる |
| 1975年9月 | 押尾川が16人の力士と独立 | 二所ノ関部屋が分裂する |
| 1976年9月3日 | 金剛が現役引退 | 10代二所ノ関を襲名し、部屋を継承 |
| 2013年1月 | 旧二所ノ関部屋が閉鎖 | 金剛の時代が終わる |
| 2021年12月 | 稀勢の里が二所ノ関を襲名 | 現在につながる名跡継承が実現 |
この年表から分かるのは、8代の死去から10代の襲名まで、約1年半にわたって継承問題が続いたということだ。
また、1975年9月の押尾川独立と、1976年9月の金剛による部屋継承は別の出来事である。
この2つの時期を混同すると、後継争いの経緯を正確に理解できなくなる。
【金剛が10代二所ノ関を襲名】1976年9月、27歳で現役引退した理由
二所ノ関部屋の後継争いを最終的に決着させた人物が、元関脇・金剛正裕だった。
金剛は1948年11月18日生まれ、北海道深川市出身。二所ノ関部屋に所属し、幕内優勝1回を記録した実力者である。
1975年名古屋場所では幕内優勝を果たし、翌秋場所には関脇に昇進している。
力士としてのキャリアが充実し始めた時期に、部屋の継承という大きな転換点を迎えた。
8代二所ノ関の次女との婚約が決定打金剛が8代の次女と婚約したことは、後継争いの構図を大きく変えた。
これによって金剛は、単なる部屋所属の現役力士から、8代二所ノ関の娘婿として部屋を継ぐ立場になった。
大おかみが望んでいた後継者像とも一致し、継承の方向性が固まったのである。
ただし、この決着によって押尾川側の不満が解消されたわけではない。実際に押尾川部屋が独立するなど、部屋の内部には大きな影響が残った。
1976年9月3日、金剛が10代二所ノ関に1976年9月3日、金剛は27歳で現役を引退し、10代二所ノ関を襲名した。
このときの金剛は、力士としてまだ若く、競技生活を続ける選択肢も考えられる年齢だった。
それでも部屋を継承する道を選び、師匠として二所ノ関部屋を率いることになった。
この決断は、個人の力士人生だけでなく、二所ノ関部屋のその後を左右するものだった。
ベースボール・マガジン社の金剛に関する連載記事でも、後継者問題に巻き込まれ、27歳という若さで引退して部屋を継承した経緯が紹介されている。
金剛はその後、2013年に旧二所ノ関部屋が閉鎖されるまで師匠を務めた。
10代二所ノ関時代の功績と部屋の終焉金剛の時代には、鳳凰、大徹、大善らの力士が育った。
特に小結・大善は、金剛時代の二所ノ関部屋を代表する力士の一人である。
しかし、部屋の運営は次第に厳しくなっていく。
2012年10月、金剛が脳梗塞で入院。師匠としての職務を続けることが難しくなり、後継者の調整もまとまらなかった。
2013年1月、日本相撲協会は旧二所ノ関部屋を初場所限りで閉鎖することになった。
大鵬や玉錦を育てた名門部屋は、金剛の時代を最後に、いったんその歴史に幕を下ろしたのである。
【2013年以降の名跡継承】若嶋津を経て稀勢の里へ
旧二所ノ関部屋は2013年に閉鎖されたが、二所ノ関という年寄名跡まで消滅したわけではない。
ここが、現在の二所ノ関親方を理解するうえで要点だ。
11代・玉力道から12代・若嶋津へ金剛が協会を退職した後、2013年6月には元前頭・玉力道が二所ノ関の名跡を取得した。
その後、2014年12月には元大関・若嶋津が12代二所ノ関となった。
若嶋津は二子山部屋出身の元大関で、引退後は松ヶ根部屋の師匠として活動していた人物だ。
この名跡の移動によって、二所ノ関という名前は再び部屋運営と結び付くことになる。
13代・稀勢の里が2021年12月に襲名2021年12月、元横綱・稀勢の里が二所ノ関の名跡を襲名した。
稀勢の里は、2017年の初場所で初優勝を果たし、その後、第72代横綱に昇進した力士である。
2021年には田子ノ浦部屋から独立して荒磯部屋を創設しており、二所ノ関襲名に伴って部屋の名称も変更された。
そして2022年6月、茨城県阿見町に新しい二所ノ関部屋が完成した。
この流れによって、現在の二所ノ関部屋が誕生したのである。
旧二所ノ関部屋と現在の部屋は何が違う?両者の違いを整理すると、次のようになる。
- 旧二所ノ関部屋:1909年に海山が創設し、玉錦、大鵬らを育てた名門。2013年1月に閉鎖。
- 現在の二所ノ関部屋:稀勢の里が2021年に名跡を襲名し、2022年6月に阿見町で開設した部屋。
両者は同じ二所ノ関という名前を受け継いでいるが、旧部屋が途切れることなく同じ建物で存続しているわけではない。
年寄名跡の継承と、相撲部屋の組織・施設の継承を分けて考えることが大切だ。
【プロの結論】二所ノ関部屋の後継争いから分かる相撲界の継承制度
二所ノ関部屋の後継争いは、昭和の相撲界における部屋の運営と継承の難しさを象徴する出来事だった。
この問題を単に「大鵬と押尾川が争い、最後に金剛が勝った」と理解するだけでは、歴史の本質を見落としてしまう。
後継者選びは現役時代の実績だけでは決まらない大鵬は横綱として圧倒的な実績を持ち、大麒麟は大関経験者として親方になっていた。
一方の金剛は、現役力士でありながら8代の次女との婚約によって、家族との関係を背景に後継者となった。
この3人を比較すると、後継者選びには複数の要素が存在していたことが分かる。
1. 力士としての実績と知名度
2. 部屋での指導経験と組織への貢献
3. 先代師匠や家族との関係
4. 年寄名跡の継承と部屋の運営体制
5. 所属力士や関係者の意向
現代の相撲部屋でも、師匠の引退や交代に伴って、部屋の存続や所属力士の移籍が問題になることがある。
二所ノ関部屋の歴史は、部屋の継承が単純な実績順では決まらないことを示している。
「相続争い」は法律上の遺産相続とは異なるもう一つ注意したいのが、「二所ノ関部屋の相続争い」という表現だ。
一般にこの出来事は相続問題として紹介されることが多いが、ここでいう相続は、民法上の遺産相続を直接意味するものではない。
問題になったのは、師匠の死後、誰が二所ノ関の名跡を継ぎ、部屋を率いるのかという相撲界の組織上の継承だった。
その過程に、8代の未亡人である大おかみの意向や、次女との婚約が関係したため、家族の問題と部屋の運営問題が重なって見えるのである。
この違いを理解しておくと、後継争いを必要以上に家族間の財産トラブルとして解釈せずに済む。
二所ノ関一門の総帥という立場の重みかつての二所ノ関部屋は、単に多くの力士を抱える名門というだけではなかった。
二所ノ関一門の総帥として、分家独立を奨励しながら複数の相撲部屋を生み出してきた歴史がある。
花籠、佐渡ヶ嶽、片男波などの部屋が独立し、それぞれが有力力士を育てた。
こうした一門の広がりは、二所ノ関部屋の影響力を大きくした一方、本家の継承が難しくなった場合には、関係する部屋や親方にも影響が及ぶ構造を生んでいた。
1975年の後継問題で押尾川部屋が独立したことは、その象徴的な出来事だった。
二所ノ関という名前の価値は、個人の肩書だけでなく、長い時間をかけて形成された一門の歴史にも支えられていたのである。
【よくある質問】二所ノ関親方と二所ノ関部屋に関するFAQ
Q1:現在の二所ノ関親方は誰ですか?
A1:元横綱・稀勢の里の二所ノ関寛です。2021年12月に二所ノ関を襲名し、2022年6月に茨城県阿見町で二所ノ関部屋を開設しました。
Q2:歴代の二所ノ関親方で有名なのは誰ですか?
A2:玉錦、玉ノ海梅吉、佐賀ノ花、金剛、若嶋津、稀勢の里などが代表的です。特に8代佐賀ノ花と10代金剛は、1975年の後継問題を理解するうえで重要な人物です。
Q3:大鵬はなぜ二所ノ関部屋を継がなかったのですか?
A3:大鵬は8代二所ノ関から縁談を持ち掛けられた際、結婚と将来の部屋継承を結び付けた提案を断っています。1975年の後継問題では候補に挙がりましたが、最終的に辞退しました。
Q4:17代押尾川はなぜ二所ノ関部屋を継げなかったのですか?
A4:元大関・大麒麟の17代押尾川は有力候補でしたが、8代二所ノ関の未亡人である大おかみが継承を認めなかったことなどから、後継問題が長期化しました。その後、金剛が8代の次女と婚約し、継承が決まりました。
Q5:金剛が10代二所ノ関を襲名したのはいつですか?
A5:1976年9月3日です。金剛は当時27歳で現役を引退し、10代二所ノ関を襲名して部屋を継承しました。
Q6:二所ノ関部屋は一度なくなったのですか?
A6:旧二所ノ関部屋は2013年1月に閉鎖されました。その後、年寄名跡が玉力道、若嶋津、稀勢の里へと継承され、現在は稀勢の里が師匠を務める二所ノ関部屋が阿見町にあります。
Q7:大おかみとは誰のことですか?
A7:1975年の後継争いでいう大おかみは、8代二所ノ関(元大関・佐賀ノ花)の未亡人です。17代押尾川への継承に反対し、金剛を後継者として望んでいた人物として知られています。
二所ノ関親方の歴史をたどると、現在の稀勢の里に至るまで、数多くの名力士と親方が名跡を受け継いできたことが分かる。
特に1975年から1976年にかけての後継争いは、二所ノ関部屋の歴史を大きく変えた出来事だった。
大鵬は後継候補から退き、17代押尾川は大おかみとの意見の相違から部屋を継承できず、最終的には金剛が8代の次女と婚約することで10代二所ノ関となった。
27歳という若さで引退した金剛は、その後長く部屋を率いたものの、2013年に旧二所ノ関部屋は閉鎖された。
しかし、二所ノ関という年寄名跡はその後も受け継がれ、2021年12月には稀勢の里が13代目として襲名。2022年には阿見町で新しい二所ノ関部屋がスタートした。
2026年現在、二所ノ関親方を調べる際には、次の3点を押さえておくと歴史を正確に理解できる。
- 人物としての二所ノ関親方:現在は元横綱・稀勢の里。
- 旧二所ノ関部屋の後継争い:大鵬、17代押尾川、大おかみ、金剛が関係した1975〜1976年の出来事。
- 年寄名跡の継承:金剛の後、玉力道、若嶋津を経て稀勢の里へと引き継がれた。
二所ノ関部屋の歴史は、名跡を守ることと、実際に部屋を存続させることが必ずしも同じではないと教えてくれる。玉錦や大鵬が築いた名門の伝統を、現在の二所ノ関親方がどのような形で次の世代につないでいくのか。今後の力士育成と部屋の発展にも注目したい。
主な参考資料・史料
- 日本相撲協会「相撲部屋のご紹介・二所ノ関部屋」
- 茨城県阿見町「二所ノ関寛さん」「親方プロフィール」
- 墨田区立図書館『相撲・両国・国技館』
- 日刊スポーツ「天龍源一郎連載・押尾川事件」
- ベースボール・マガジン社「名力士たちの『開眼』関脇・金剛正裕編」
- イミダス「二所ノ関部屋」