岸信介(きし・のぶすけ)は、戦前には満州国の産業政策を主導し、太平洋戦争中には東条英機内閣の商工大臣・軍需次官として日本の戦時経済体制を支え、戦後には第56・57代内閣総理大臣として日米安全保障条約の改定を実現した政治家です。1896年に山口県で生まれ、1987年に亡くなりました。
特に注目されるのは、敗戦後にA級戦犯容疑者として巣鴨拘置所に拘束されながら、起訴されずに釈放され、その後、日本の首相にまで上り詰めた点です。首相在任中には1960年の安保闘争を引き起こすほどの政治的対立を経験しましたが、改定された日米安保条約は、その後の日本の外交・安全保障政策の基盤となりました。
【先に結論】岸信介は何をした人物なのか?主な功績と批判

岸信介を理解するには、戦前・戦中・戦後という3つの時代を分けて考える必要があります。
戦前の岸は、東京帝国大学法学部を卒業した後、農商務省に入省した官僚でした。1930年代には満州国に渡り、産業開発や経済統制を担当します。そこで培った計画経済や産業政策の経験を、日本の戦時経済体制にも持ち込みました。
戦時中には東条英機内閣の商工大臣となり、軍需生産を支える行政に関与しました。単なる軍人や政治家ではなく、国家の資金・物資・産業を動かす経済官僚として戦争遂行を支えた人物です。
敗戦後はA級戦犯容疑者として拘束されました。しかし、東京裁判で有罪判決を受けたわけではなく、1948年12月に不起訴のまま釈放されています。その後、政界に復帰し、1957年に首相に就任しました。
首相として最大の政治課題に掲げたのが、日米安全保障条約の改定です。1960年1月に新条約へ署名し、同年6月の発効を実現しました。一方、改定に反対する大規模な国民運動が起き、国会での強行採決や警察とデモ参加者の衝突によって政治的混乱が深刻化しました。
つまり岸信介は、戦前の満州国経営、戦時経済、戦後の保守政治、日米同盟の形成という、日本の近現代史の重要な転換点すべてに関わった人物です。功績と批判が現在まで並存する理由も、こうした複雑な経歴にあります。
【経歴・年表】岸信介の生い立ちから首相就任まで
1896年に山口県で生まれ、官僚の道へ岸信介は1896年11月13日、山口県に生まれました。出生時の姓は佐藤で、後に岸家を継いで岸姓を名乗るようになります。
弟にあたる佐藤栄作も、後に内閣総理大臣となりました。岸と佐藤は実の兄弟ですが、それぞれ別の家を継いだため、姓が異なります。
岸は東京帝国大学法学部を1920年に卒業し、農商務省に入省しました。官僚として産業政策や経済行政に携わり、次第に国家の経済運営を担う中心人物へと成長していきます。
満州国での活動から東条内閣へ1936年10月、岸は満州国の実業部総務司長に就任しました。翌1937年には産業部次長となり、満州国の産業政策を担当します。
1939年には日本へ戻り、商工次官に就任しました。1941年10月には東条英機内閣の商工大臣として入閣し、戦時経済を支える立場になります。
岸信介の主要経歴・年表| 年月 | 主な出来事・役職 | 歴史的な意味 |
|---|---|---|
| 1896年11月 | 山口県に生まれる | 出生時の姓は佐藤 |
| 1920年 | 東京帝国大学法学部卒業、農商務省入省 | 官僚としてのキャリアを開始 |
| 1936年10月 | 満州国実業部総務司長 | 満州国の産業政策に関与 |
| 1937年7月 | 満州国産業部次長 | 産業開発五か年計画の推進に関与 |
| 1939年10月 | 商工次官 | 日本の産業行政に復帰 |
| 1941年10月 | 東条内閣の商工大臣 | 戦時経済体制を担当 |
| 1943年10月 | 国務大臣兼軍需次官 | 軍需生産の行政を担当 |
| 1945年9月 | A級戦犯容疑者として拘束 | 戦争責任をめぐる調査対象となる |
| 1948年12月24日 | 巣鴨拘置所から釈放 | 追加起訴されずに釈放 |
| 1952年4月 | 公職追放解除 | 政治活動への復帰が可能になる |
| 1956年12月 | 石橋湛山内閣の外務大臣 | 外交の中枢に復帰 |
| 1957年2月25日 | 第56代内閣総理大臣に就任 | 第1次岸内閣が成立 |
| 1958年6月12日 | 第2次岸内閣が成立 | 安保改定を本格的に推進 |
| 1960年1月19日 | 新日米安保条約に署名 | 日米安全保障体制を再構築 |
| 1960年7月 | 内閣総辞職 | 安保闘争の政治的責任を受けて退陣 |
| 1987年8月7日 | 死去 | 90歳で生涯を終える |
この年表で注目したいのは、岸が戦後に突然政治家として現れた人物ではないという点です。戦前から産業行政の中枢にいた経験が、戦後の政治構想にも大きく影響しました。
国立国会図書館の「近代日本人の肖像」や憲政資料室の岸信介関係文書には、農商務省入省から満州国での勤務、東条内閣、戦後の政治復帰までの経歴が記録されています。
【満州国で何をした?】岸信介と産業開発五か年計画の実態
満州国の経済政策を担った中心的な官僚岸信介の経歴を語るうえで、満州国での活動は欠かせません。
1932年に成立した満州国は、日本の強い政治的・軍事的影響下に置かれた国家でした。関東軍の影響力が大きく、日本は満州国の資源や産業を自国の経済・軍事戦略に組み込んでいきました。
岸は1936年に満州国へ渡り、実業部総務司長に就任します。1937年7月には産業部次長となり、産業行政の中枢を担いました。
岸が関与した代表的な政策が、満州産業開発五か年計画です。
満州産業開発五か年計画とは何だったのか満州産業開発五か年計画は、1937年から実施された満州国の大規模な産業開発政策です。
中心となったのは、鉄鋼、石炭、電力、機械、化学工業などの重工業分野でした。満州に存在する天然資源を利用し、工業生産を拡大することで、日本の経済力と軍事力を支える供給拠点を形成することが目的でした。
岸は計画の立案・行政面に深く関与し、満州国の経済を国家主導で動かす仕組みづくりを進めました。
当時の政策の特徴は、民間企業の自由な競争に任せるのではなく、国家が産業の重点分野を定め、資源・資金・生産設備を集中的に配分することにありました。
経済発展の裏側にあった植民地支配と軍事的目的満州国の工業化を単純に経済発展の成功として評価することはできません。
産業開発の目的には、日本の軍事的需要を満たすことが含まれていました。鉄鋼や石炭などの生産力を高める政策は、民間生活の豊かさだけを目指したものではなく、戦争遂行に必要な物資供給体制を整える意味を持っていました。
また、満州国の経済開発は、日本の植民地的支配構造と切り離せません。資源や土地、労働力を国家の計画に組み込む仕組みは、現地住民の生活や労働に大きな影響を及ぼしました。
経済史研究では、満州産業開発五か年計画について、資金や労働力、機械工業の未成熟といった構造的な制約があり、計画の遂行には大きな困難が伴ったことも指摘されています。
したがって岸の満州での功績は、産業政策を構築した行政能力という面だけでは評価できません。その能力が日本の対外進出と軍事的な経済統制に結び付いていたことも、同時に検討する必要があります。
アジア歴史資料センターの行政資料や、研究者による満州工業化政策の研究は、岸の役職と計画の内容を理解するうえで重要な資料です。
【東条英機との関係】商工大臣・軍需次官として戦時中に何をした?
東条英機とは満州での経歴も重なる岸信介と東条英機は、戦前から満州を舞台にした経歴で接点を持っていました。
東条は1937年から1938年にかけて関東軍参謀長を務めました。一方、岸は1936年から満州国の実業部・産業部で産業政策を担当していました。
両者は満州における日本の支配体制と産業開発を進めた時期が重なっています。
その後、東条が1941年10月に首相となると、岸は東条内閣の商工大臣に起用されました。この人事によって、岸は日本の戦時経済を動かす政治的な中枢に入りました。
商工大臣として戦時経済を支えた当時の日本では、日中戦争の長期化と太平洋戦争への突入によって、経済全体を戦争遂行に向けて再編する必要が生じていました。
政府は国家総動員法などを背景に、企業活動、物資、生産設備、労働力を国家の統制下に置く政策を進めていました。
岸は商工大臣として、産業生産や物資配分などの経済行政に携わり、戦争を継続するための生産体制を支えました。
1943年には軍需省が設置され、東条首相が軍需大臣を兼任します。岸は国務大臣兼軍需次官として、軍需行政の実務を担当しました。
これは、岸が戦時中に単なる閣僚として在籍していただけではなく、軍需生産を管理する行政の中核にいたことを意味します。
岸と東条の関係は単純な主従関係ではない岸と東条の関係を理解する際には、両者が常に同じ政治的立場だったと考えないことも重要です。
岸は商工省の官僚時代から、国家による産業統制を重視していました。しかし、官僚や政治家としての岸には、経済政策や行政運営をめぐって他の閣僚と対立した経歴もあります。
例えば1940年には、小林一三商工大臣との対立によって商工次官を辞任する事態になりました。この出来事は、岸が単に上層部の意向に従うだけの官僚ではなく、自らの経済政策構想を持っていたことを示しています。
ただし、政策上の意見の違いがあったことと、戦時体制への責任がなくなることは別問題です。岸は東条内閣の商工大臣として戦争遂行を支えたという歴史的事実から逃れることはできません。
【A級戦犯容疑者】岸信介はなぜ逮捕され、なぜ不起訴になった?
1945年、A級戦犯容疑者として拘束される1945年8月、日本はポツダム宣言を受諾して敗戦しました。戦後、日本を占領した連合国軍は、戦争指導者や軍・政府関係者の戦争責任を追及するため、戦犯容疑者の調査と拘束を進めます。
岸信介もその対象となり、1945年9月に戦犯容疑者として横浜の米第8軍司令部に出頭し、その後、巣鴨拘置所に収容されました。
岸に対する疑いの背景には、満州国での活動や東条内閣の商工大臣としての経歴、戦時経済体制への関与がありました。
ここで注意したいのは、岸がA級戦犯容疑者だったことと、A級戦犯として有罪判決を受けたことは全く違うという点です。
A級戦犯とは何を意味するのか極東国際軍事裁判、いわゆる東京裁判では、戦争犯罪が大きくA級・B級・C級に分類されました。
- A級:平和に対する罪。侵略戦争の計画・準備・開始・遂行などに関する罪。
- B級:通常の戦争犯罪。戦争法規や慣例に違反する行為。
- C級:人道に対する罪。民間人などに対する殺人、絶滅、奴隷化、迫害など。
A級という分類は、単純にB級やC級よりも残虐な行為をしたという意味ではありません。問われる犯罪の性質が異なります。
岸はA級戦犯容疑者として拘束されましたが、東京裁判の被告として起訴された28人の中には含まれていませんでした。
不起訴・釈放の理由は何だったのか岸は約3年間、拘束された後、1948年12月24日に巣鴨拘置所から釈放されました。
その理由を理解するうえで重要なのが、米国務省が公開している1948年12月24日付の外交文書です。
この文書には、岸を含む19人の戦犯容疑者について、連合国軍総司令部の法務部門が追加の裁判を開始しない判断を下し、釈放したことが記録されています。
また、戦犯容疑者の調査を担当した法務部門は、証拠を検討した結果、追加起訴を正当化するだけの十分な根拠が得られなかったことを説明しています。職務に就いていた期間が限られていたため、職位に基づくB級・C級犯罪の立証も難しいと判断された事情がありました。
つまり、岸が不起訴になった直接的な理由は、調査の結果、裁判に進めるだけの十分な証拠が得られなかったことです。
不起訴は無罪判決と同じではないこの点は岸信介の歴史的評価を考えるうえで非常に重要です。
岸には裁判で有罪判決が出ていません。しかし、同時に、東京裁判で無罪判決を受けた人物でもありません。裁判にかけられず、起訴されないまま釈放された人物です。
また、戦犯容疑者の釈放は、戦後の占領政策が変化した時期とも重なります。米国は冷戦の進行を背景に、日本の非軍事化だけでなく経済復興や反共陣営の同盟国としての再建を重視するようになりました。いわゆる逆コースと呼ばれる政策転換です。
ただし、岸個人の釈放については、当時の米側の法務文書に記された証拠評価と、占領政策全体の変化を区別して考える必要があります。
釈放後、岸は1952年4月に公職追放を解除され、政治活動を再開します。1953年に自由党へ入り、保守合同後の自由民主党でも幹事長を務めるなど、急速に政界での影響力を回復しました。
【首相時代の政策】岸信介が進めた日米安保条約改定と1960年安保闘争
1957年に首相就任、外交と経済政策を推進岸信介は1957年2月25日、第56代内閣総理大臣に就任しました。翌1958年6月には第2次岸内閣を組織し、1960年7月まで政権を担いました。
首相時代の政策は、大きく分けて経済・社会保障政策と外交・安全保障政策の2つに整理できます。
内政では、国民年金法の制定や最低賃金法の制定など、社会保障と労働環境に関する制度整備を進めました。また、国民健康保険制度の拡充にも取り組み、後の国民皆保険体制につながる政策を推進しました。
経済面では、新長期経済計画を策定し、雇用拡大や生活水準の向上を目指しました。道路整備や学校施設の改善など、社会基盤の整備にも力を入れています。
ただし、国民皆保険の全国的な実現は1961年であり、岸の退陣後です。岸内閣の取り組みと、その後の政権による完成を混同してはいけません。
岸信介が日米安保条約を改定した理由岸政権最大の政治課題は、1951年に締結された旧日米安全保障条約の改定でした。
旧条約は、日本が米軍に基地を提供する一方、米国が日本を防衛する義務について明確に定めていないなど、日米間の関係に不均衡があると指摘されていました。
岸は、この関係を見直し、日本の独立国としての立場を強めながら、米国との安全保障協力を制度化しようとしました。
新条約では、主に次の点が整備されました。
- 第5条:日本の施政下にある領域への武力攻撃に対し、日米両国が共通の危険に対処する。
- 第6条:日本国内に米軍が施設・区域を使用することを認める。
- 第4条:日本の安全や極東の平和に対する脅威について、日米両国が協議する。
- 事前協議:米軍の配置や装備の重要な変更、日本から行う一定の戦闘作戦行動のための基地使用について、事前協議の仕組みを設ける。
新条約は、米国の対日防衛義務を明文化し、旧条約よりも日米間の相互性を強めました。ただし、日本は憲法上の制約を持ち、米軍基地の提供も継続するため、両国の安全保障上の役割が完全に同じになったわけではありません。
1960年1月19日、ワシントンで新安保条約に署名岸は1960年1月19日、訪米先のホワイトハウスでアイゼンハワー大統領の政権下において、新しい日米安全保障条約に署名しました。
日本側の署名者は岸自身であり、条約改定に対する強い政治的責任を示す行動でもありました。
外務省の外交青書によると、新条約は同年6月23日に発効しました。現在の日米同盟の基本的な法的枠組みにつながる重要な外交上の転換点です。
なぜ1960年安保闘争が起きたのか新安保条約の改定は、国内で激しい反対運動を引き起こしました。これが1960年安保闘争です。
反対派が懸念したのは、日本が米国の軍事戦略に深く組み込まれ、戦争に巻き込まれる可能性が高まることでした。また、米軍基地の存在が続くことや、日本の安全保障政策が米国に左右されることへの不安もありました。
加えて、条約の内容だけでなく、岸内閣の国会運営に対する批判も運動を拡大させました。
1958年には警察官職務執行法の改正案をめぐって大規模な反対運動が起き、岸政権の強硬な政治手法に対する警戒感が高まっていました。
そして1960年5月19日から20日未明にかけて、自民党は衆議院で新安保条約の承認案を強行採決しました。野党側の抵抗を押し切る形で進められた国会運営に対し、国民の反発は一段と強まりました。
樺美智子の死亡と岸内閣の退陣1960年6月15日、国会周辺で大規模な抗議行動が行われ、全学連の学生らと警察が衝突しました。
この衝突で、東京大学の学生だった樺美智子(かんば・みちこ)が死亡しました。22歳でした。
学生だけでなく、労働組合、市民、知識人など幅広い層が参加した安保反対運動は、戦後日本の政治史に残る大規模な社会運動となりました。
新条約は6月19日、参議院での議決がないまま、憲法の規定に基づいて自然承認されました。そして6月23日に批准書が交換され、条約が発効します。
しかし、岸内閣は政治的な混乱を収拾できず、岸は6月23日に退陣を表明しました。7月15日に内閣総辞職し、後任には池田勇人が就任しました。
この一連の出来事は、岸が外交上の大きな目標を実現した一方で、国内の民主的な合意形成に失敗したことを象徴しています。
【人物関係と歴史的評価】佐藤栄作・東条英機・米国とのつながり
岸信介と佐藤栄作は実の兄弟岸信介と佐藤栄作は、どちらも日本の首相を務めた実の兄弟です。
岸は佐藤家に生まれた後、岸家を継ぎました。一方、弟の佐藤栄作は佐藤家を継いだため、姓が異なります。
兄の岸は1957年から1960年まで首相を務め、弟の佐藤栄作は1964年から1972年まで首相を務めました。
岸内閣の第2次内閣では、佐藤栄作が大蔵大臣を務めています。兄弟でありながら、それぞれ政治家として重要な役割を担い、戦後日本の保守政治を支えました。
佐藤栄作は後に沖縄返還を実現し、1974年にはノーベル平和賞を受賞しています。
岸信介を取り巻く主要人物・組織の関係| 人物・組織 | 岸信介との関係 | 歴史上の意味 |
|---|---|---|
| 東条英機 | 満州での活動時期が重なり、東条内閣で商工大臣を務めた | 戦時経済体制を推進した時代の政治的関係者 |
| 佐藤栄作 | 実の弟 | 後に首相となり、兄弟で首相を務めた |
| 鮎川義介 | 満州の産業開発で関係する実業家 | 満州重工業開発などの産業政策に関与 |
| アイゼンハワー | 新安保条約改定時の米国大統領 | 1960年の日米条約締結に関わった |
| 池田勇人 | 岸の後任の首相 | 岸退陣後に所得倍増政策を推進 |
| 自由民主党 | 保守合同後に幹事長などを歴任 | 戦後保守政治の中心的な政党 |
岸の功績として最も大きく取り上げられるのは、日米安全保障条約の改定です。
旧条約の不均衡を見直し、米国の対日防衛義務を明確にしたことは、日本の安全保障政策にとって大きな意味を持ちました。
新条約は2026年現在も日米同盟の法的基盤であり、日本の外交・防衛政策を考えるうえで欠かせない存在です。
また、国民年金法や最低賃金法など、社会保障と労働政策の制度整備を進めたことも評価されています。
加えて、満州国時代から培った産業政策の知識や行政能力は、戦後の日本政治においても大きな影響力を持ちました。
岸信介に対する批判と歴史的な問題点一方、岸に対する批判は大きく3つに分けられます。
第一に、満州国での経済政策です。岸は日本の影響下にあった満州国で産業開発を推進しました。その経済政策は、現地住民の利益を第一にしたものではなく、日本の軍事・経済的な支配構造と結び付いていました。
第二に、戦時体制への関与です。東条内閣の商工大臣や軍需次官として、岸は戦争遂行に必要な生産・物資の統制を担いました。官僚としての能力が、戦争を支える仕組みに利用されたことは重要な批判点です。
第三に、1960年の安保改定をめぐる政治手法です。条約そのものの内容とは別に、国会での強行採決や国民的な反対運動への対応が批判されました。政策目標の実現を優先し、議会政治や国民の合意形成を軽視したとの評価があります。
岸の歴史的評価が分かれるのは、外交・経済政策の成果と、戦前・戦中の責任、民主主義をめぐる問題が同時に存在しているためです。
【岸信介の評価】功績と批判をどう判断すべきか
岸信介の歴史的な影響を正しく理解するには、政治家としての実績だけでなく、その政策が実施された時代背景や社会への影響も考慮する必要があります。
例えば、満州国の産業開発を評価する場合、工業化の規模や行政手腕だけを見るのでは不十分です。日本の大陸進出、関東軍の影響力、資源動員、現地住民への支配という構造まで含めて考える必要があります。
同様に、日米安保改定についても、現在の日米同盟の基盤を整えたという成果だけでなく、当時の国会運営や反対運動への対応も検討しなければなりません。
岸信介を単純に「日本を救った政治家」あるいは「戦争責任だけを負う人物」と分類することは、歴史の実態を見失わせます。
彼は戦前の官僚機構と戦時経済の経験を持ち込み、戦後の保守政治を再編し、日米関係の制度設計に深く関わった政治家でした。その一方で、戦前・戦中の政策に対する責任と、安保改定時の強硬な政治姿勢も、歴史的な評価の対象であり続けています。
また、岸の影響は本人の退陣後も続きました。弟の佐藤栄作が首相として長期政権を担ったことや、日米安保体制がその後の日本外交の中心となったことからも、岸が残した政治的な影響の大きさが分かります。
【岸信介の何をしたかに関するよくある質問(FAQ)】
Q1:岸信介は満州国で何をしたのですか?
A1:1936年に満州国実業部総務司長、1937年に産業部次長となり、満州産業開発五か年計画などの産業政策に関与しました。鉄鋼・石炭・電力などの重工業を強化し、日本の軍事・経済戦略を支える生産体制づくりを進めました。
Q2:岸信介は本当にA級戦犯だったのですか?
A2:正確にはA級戦犯容疑者です。1945年に拘束されましたが、東京裁判で起訴されず、有罪判決も受けていません。1948年12月24日に釈放されました。
Q3:岸信介が不起訴になった理由は何ですか?
A3:連合国軍総司令部の法務部門による調査で、追加起訴を正当化する十分な証拠が得られなかったためです。米国の外交文書には、職務期間の短さなどからB級・C級犯罪の立証が難しいと判断された事情も記されています。
Q4:岸信介と東条英機はどのような関係でしたか?
A4:満州国での活動時期が重なり、1941年に東条英機が首相に就任すると、岸は商工大臣として入閣しました。後には国務大臣兼軍需次官として軍需行政にも携わりました。
Q5:岸信介が首相として最も大きな功績を残したのは何ですか?
A5:1960年の日米安全保障条約改定です。米国の対日防衛義務を明確化し、日米間の安全保障協力の制度的な基盤を整えました。一方、改定過程で大規模な安保闘争を招いたことも重要な歴史的事実です。
Q6:岸信介と佐藤栄作は兄弟ですか?
A6:はい、実の兄弟です。岸信介は兄、佐藤栄作は弟です。それぞれ別の家を継いだため姓は異なります。岸は1957年から1960年、佐藤は1964年から1972年まで首相を務めました。
Q7:岸信介はなぜ歴史的評価が分かれているのですか?
A7:日米安保条約の改定や社会保障制度の整備といった実績がある一方、満州国での産業政策や東条内閣での戦時経済への関与、1960年の安保改定時の強硬な国会運営に批判があるためです。戦前・戦中・戦後の3つの時代を通じて評価する必要があります。
岸信介は、満州国の産業開発に携わった官僚から、東条英機内閣の商工大臣・軍需次官を経て、戦後日本の首相にまで上り詰めた政治家です。
彼の人生には、戦前の大陸進出、戦時経済、敗戦後の戦犯容疑、保守政治の再編、日米安保改定という、日本の近現代史を理解するための重要な出来事が凝縮されています。
特に重要なのは、次の3点です。
- 満州国時代:産業開発五か年計画を推進し、重工業を中心とする国家主導の経済体制を構築した。
- 戦時中:東条内閣の商工大臣・軍需次官として、戦争を支える経済統制と軍需生産に関与した。
- 戦後:A級戦犯容疑者として拘束された後に不起訴で釈放され、首相として日米安保条約の改定を実現した。
岸信介を評価する際には、A級戦犯容疑者だったことを有罪判決と混同しないこと、安保改定の成果と安保闘争の政治的責任を分けて考えること、そして満州国での産業開発を植民地支配や戦争遂行との関係から検討することが欠かせません。
2026年現在も日米安保条約は日本の安全保障政策の中心にあります。その制度的な出発点を作った岸信介の政治的功績は大きい一方、戦時体制への関与や政治手法に対する批判も、歴史的に検証され続けるべき問題です。
岸信介は何をした人物なのか。その答えは、単に安保条約を改定した首相というだけではありません。戦前の国家統制型経済から戦後の日米同盟体制への移行を担い、その両方に深い足跡と議論の余地を残した、日本の近現代史を象徴する政治家だったのです。
主な史料・参考資料
- 国立国会図書館「近代日本人の肖像・岸信介」「岸信介関係文書」
- アジア歴史資料センター「満州国実業部・産業部」関連資料
- 米国務省「Foreign Relations of the United States, 1948」1948年12月24日付外交文書
- 外務省「日米安全保障条約」「外交青書」
- 国立公文書館「高度成長の時代へ」
- 国立国会図書館「史料にみる日本の近代」
- 法政大学大原社会問題研究所「社会・労働運動大年表」
- 小林英夫「1930年代『満洲工業化』政策の展開過程」『土地制度史学』