平岡円四郎(ひらおか・えんしろう)は、幕末の動乱期に徳川慶喜を支え、後に「日本資本主義の父」と呼ばれる渋沢栄一を一橋家に推挙した幕臣です。文政5年(1822年)に江戸で生まれ、将軍継嗣問題や幕府の政治改革に関わりましたが、元治元年(1864年)、京都で水戸藩士らに襲撃され、43歳で生涯を閉じました。
歴史上の知名度は徳川慶喜や渋沢栄一ほど高くありません。しかし、慶喜の政治的な台頭を支え、渋沢の人生を大きく変えた人物として、その存在は幕末史を理解するうえで欠かせません。2021年放送のNHK大河ドラマ『青天を衝け』では堤真一が演じ、改めて注目を集めました。
【平岡円四郎とは何者か】生年月日・出身・家系と生涯の基本プロフィール

平岡円四郎は、江戸幕府に仕えた幕臣であり、一橋徳川家の当主だった徳川慶喜の側近として活躍した人物です。単なる主君の身の回りを世話する家臣ではなく、政治的な情報収集や人材登用、幕府と朝廷をめぐる交渉などにも関わりました。
特に注目したいのは、彼が生まれながらの一橋家の家臣ではなかった点です。旗本の家に生まれ、養子縁組を経て平岡姓を名乗り、能力を認められて慶喜に仕えるようになりました。
平岡円四郎の生年月日・出身・享年平岡円四郎の基本プロフィールは次のとおりです。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 名前 | 平岡円四郎 |
| 読み方 | ひらおか えんしろう |
| 生年月日 | 文政5年10月7日(新暦1822年11月20日) |
| 没年月日 | 元治元年6月16日(新暦1864年7月19日) |
| 出身 | 江戸 |
| 本姓 | 岡本 |
| 実名・諱 | 方中 |
| 字 | 円外 |
| 身分 | 幕臣・一橋家家臣 |
| 主君 | 一橋徳川家当主・徳川慶喜 |
| 主な役職 | 一橋家用人・側用人・家老並 |
| 享年 | 43歳(数え年) |
生年月日については、旧暦の文政5年10月7日と、新暦に換算した1822年11月20日を区別する必要があります。歴史人物のプロフィールで見かける日付の違いは、旧暦と新暦の表記が混在していることによるものです。
また、享年43歳という数字は数え年によるものです。生年月日と没年月日を新暦で比較すると、実際には満41歳で亡くなっています。現代の満年齢と当時の享年を混同しないことが大切です。
これらの人物情報は、講談社の『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』や国立国会図書館の典拠情報などでも確認できます。
平岡円四郎は水戸藩士だったのか?平岡円四郎については、水戸藩との関係から水戸藩士だったと誤解されることがあります。しかし、これは正確ではありません。
円四郎は江戸出身の幕臣で、もともとは旗本・岡本家の四男として生まれました。その後、天保9年(1838年)に旗本の平岡文次郎の養子となっています。
つまり、円四郎自身は水戸藩士ではありません。水戸藩との深い関係は、徳川斉昭や藤田東湖らとの人脈、そして一橋慶喜に仕えたことによって生まれたものです。
実父は旗本の岡本花亭で、円四郎はその四男でした。養子先の平岡家に入ったことによって、後世に知られる平岡円四郎という名前を名乗るようになります。
この出自を押さえておくと、後に水戸藩士によって暗殺されるという彼の運命が、幕末の政治対立の複雑さを象徴していることも理解しやすくなります。
【幕臣から一橋家用人へ】平岡円四郎の経歴を年表で整理
平岡円四郎の経歴を理解するうえで重要なのは、徳川慶喜との出会いと、将軍継嗣問題をめぐる政治的な活動です。
嘉永6年(1853年)に一橋家へ出仕した円四郎は、慶喜の近臣として信頼を獲得しました。しかし、慶喜を将軍に推そうとする政治運動が敗れると、円四郎自身も処分を受け、一時は不遇の時期を過ごします。
平岡円四郎の主要な経歴・年表| 年代 | 主な出来事 | 歴史的な意味 |
|---|---|---|
| 1822年 | 江戸で誕生 | 旗本・岡本家の四男として生まれる |
| 1838年 | 平岡文次郎の養子となる | 平岡姓を名乗る |
| 1853年 | 一橋家に出仕 | 一橋慶喜の小姓となり、側近としての道を歩み始める |
| 1858年 | 将軍継嗣問題で活動 | 一橋派による慶喜擁立運動に関わる |
| 1858~1859年 | 安政の大獄に関連して左遷 | 慶喜の隠居謹慎に伴い、円四郎も処分を受ける |
| 1860年 | 慶喜の謹慎解除 | 慶喜が政治の表舞台に復帰する |
| 1863年 | 一橋家用人として復帰 | 慶喜の側近として政治活動を支える |
| 1864年2月 | 側用人番頭を兼務 | 一橋家での影響力が強まる |
| 1864年5月 | 一橋家家老並となる | 一橋家の重臣として地位を確立する |
| 1864年6月16日 | 京都で暗殺される | 水戸藩尊攘派による襲撃で生涯を閉じる |
この年表から分かるように、円四郎の政治的な活動が目立つのは幕末の約10年間です。特に1858年の将軍継嗣問題から1864年の暗殺までが、彼の歴史的な役割を理解する重要な時期となります。
一橋家に仕える前の円四郎平岡円四郎は若い頃から学問や実務能力を備えた人物として知られていました。実父の岡本花亭は幕府の財政行政に携わった人物であり、養父の平岡文次郎も代官を務めた経験を持っていました。
こうした家庭環境も、円四郎が幕府の行政や政治に関心を持つ背景の一つだったと考えられます。
歴史学者の町田明広氏がJBpressで紹介した人物研究によると、円四郎は嘉永6年12月に一橋家へ出仕しました。慶喜の近臣となったことが、その後の政治的な経歴を大きく左右します。
安政の大獄による左遷と復帰円四郎の人生における大きな転換点が、安政5年(1858年)前後の将軍継嗣問題です。
当時の第13代将軍・徳川家定には後継者問題があり、次期将軍を誰にするかをめぐって幕府内部で対立が起こっていました。
円四郎は一橋慶喜を次期将軍に推す一橋派の活動に関わります。しかし、井伊直弼を中心とする南紀派が優勢となり、紀州藩主の徳川慶福が次期将軍に決定しました。慶福は後に第14代将軍・徳川家茂となります。
その後、安政の大獄によって慶喜は隠居謹慎となり、円四郎も政治的な影響力を失いました。小十人組への異動や甲府勝手小普請への左遷など、不遇の時期を経験します。
しかし、万延元年(1860年)の桜田門外の変で井伊直弼が暗殺され、政治情勢が変化すると、慶喜も復権への道を歩み始めます。円四郎もやがて一橋家に復帰し、再び主君を支える立場に戻りました。
一度政治の中心から遠ざけられながらも、実務能力と慶喜からの信頼によって再び重要な役割を担ったことは、円四郎の経歴を特徴づける出来事です。
【徳川慶喜との関係】一橋派と将軍継嗣問題で果たした役割
平岡円四郎を語るうえで、徳川慶喜との関係は最も重要なテーマです。
円四郎は慶喜の単なる側近ではなく、主君の政治的な可能性を早くから評価し、その立場を強化するために活動した人物でした。慶喜の政治的な台頭を支えた裏方の一人と位置づけられています。
一橋派とは何か?慶喜を将軍に推した政治勢力一橋派とは、徳川家定の後継者として一橋慶喜を推した政治勢力です。
当時、幕府はペリー来航以降の外交問題や国内の政治的不安に直面していました。将軍の後継者には、難局を乗り切るための政治的能力が求められていたのです。
一橋派は、年長で聡明と評価されていた慶喜を将軍に推すことで、幕府の政治的な立て直しを目指しました。
中心的な関係者には、次のような人物がいました。
- 徳川慶喜:一橋派が将軍候補として推した人物。
- 徳川斉昭:水戸藩主で、慶喜の実父。
- 松平春嶽:越前福井藩主。一橋派の有力な推進者。
- 島津斉彬:薩摩藩主。一橋派を支えた有力大名。
- 橋本左内:松平春嶽の側近として将軍継嗣問題に奔走。
- 平岡円四郎:一橋家臣として慶喜の擁立を支えた人物。
一方、南紀派は紀州藩主の徳川慶福を推していました。両派の対立は、単純に将軍候補の人気を競うものではありません。幕府の政治運営に誰が関与するのかという権力構造そのものをめぐる争いでもありました。
平岡円四郎は慶喜の政治的な参謀だった円四郎の役割は、慶喜を将軍候補として推すことだけにとどまりません。
慶喜が将軍後見職となった文久2年(1862年)以降、京都を中心とする政治活動は一層複雑になります。幕府、朝廷、有力諸藩の利害が交錯するなかで、慶喜は重要な政治的判断を迫られる立場になりました。
円四郎は一橋家用人として、慶喜の政治活動を支えました。公武合体をめぐる交渉や、禁裏守衛総督への就任など、慶喜の政治的な役割が拡大する過程でも、側近として重要な役割を担っています。
ここでいう公武合体とは、朝廷と幕府が協力して政治体制を維持・再編しようとする考え方です。尊王攘夷の思想が広がり、幕府への批判が強まる時代に、政治的な安定を実現するための選択肢の一つでした。
円四郎は慶喜の近くで政治の実務を担い、主君の判断を実現するための調整役として活動したのです。
円四郎が重用された理由円四郎の能力を表す言葉として、後年の渋沢栄一の回想に登場する「一を聞いて十を知る」という表現があります。
これは、相手の話の一部を聞いただけで、その意図や背景を理解できるほど頭の回転が速かったという評価です。
政治的な対立が激化していた幕末において、情報を読み取り、人物の意図を察し、先回りして行動できる能力は大きな武器でした。
ただし、先を読む能力は敵対する人々から警戒される原因にもなります。円四郎は慶喜の信頼を得る一方で、反対勢力からは政治を動かす危険な側近とみなされるようになりました。
【渋沢栄一を一橋家へ推挙】平岡円四郎との出会いが変えた運命
平岡円四郎の歴史的な功績として、徳川慶喜への奉公と並んで重要なのが、渋沢栄一を一橋家に推挙したことです。
渋沢栄一は、後に実業家として日本の近代経済を支え、多くの企業や金融制度の発展に関わった人物です。しかし、その人生は最初から幕府に仕える道を歩んでいたわけではありません。
円四郎との出会いが、渋沢の進路を大きく変えるきっかけになりました。
渋沢栄一と平岡円四郎の出会い渋沢栄一は若い頃、尊王攘夷思想に傾倒し、従兄の渋沢喜作らと政治活動を行っていました。横浜の外国人居留地を襲撃する計画にも関わりましたが、計画は実行されませんでした。
その後、幕府からの追及を警戒した渋沢と喜作は、江戸を経て京都へ向かいます。
この時点で円四郎は、すでに一橋家の用人として京都に滞在していました。渋沢と円四郎は、江戸遊学中に海保の塾や千葉の道場などを通じて接点があり、以前から面識があったのです。
渋沢栄一記念財団が公開する『実験論語処世談』には、渋沢自身による円四郎との出会いと、その後の経緯が記録されています。
同資料によると、渋沢と喜作が京都へ向かう際、円四郎は自分の家来という名目で通行できるよう、留守宅にも手配をしていました。身分の低い農民出身の2人が、当時の厳しい移動上の制約を乗り越えるための配慮でした。
渋沢栄一を一橋家に推挙した理由京都に到着した渋沢と喜作は、幕府側から疑いを持たれている状況にありました。円四郎は2人から事情を聞き、これまでの政治活動についても把握していました。
そこで円四郎が提案したのが、一橋家に仕官することでした。
円四郎は、過激な政治運動を続けるだけでは目的を実現できないと説き、政治的な実権を持つ人物に仕え、実際の政策に意見を反映させる道を勧めました。
渋沢と喜作にとって、幕府を倒そうと考えていた自分たちが、その徳川家の一門である一橋家に仕えることは大きな思想的転換でした。
しかし、2人は最終的に円四郎の提案を受け入れ、元治元年2月23日、一橋家に召し抱えられました。
この決断によって、渋沢栄一は一橋家の家臣として政治や経済の実務を経験することになります。後の実業家としての活動につながる重要な転機でした。
平岡円四郎の死後も続いた渋沢栄一への影響円四郎が暗殺された時、渋沢は関東に滞在していました。
円四郎の死後、一橋家の政務を引き継いだのは黒川嘉兵衛でした。黒川は渋沢と喜作を引き続き重用し、2人は一橋家の中で昇進していきます。
渋沢は農兵の募集や一橋領の経済状況の調査、財政改革などに関わるようになりました。特に領内の農業生産物や産業資源の状況を調べ、経済的な改善策を提案したことは、その後の実業家としての経験にもつながっています。
公益財団法人渋沢栄一記念財団の公開資料では、渋沢自身が円四郎を親切な人物として振り返っています。また、後年の回想では、円四郎が自分を登用した理由についても、単純に才能を見抜いたというより、若い自分たちを危機から救おうとした親切心があったのではないかと述べています。
「一を聞いて十を知る」
この短い言葉には、円四郎の頭の回転の速さと、人の本質を見抜く力に対する渋沢の評価が表れています。
平岡円四郎は、渋沢栄一の人生を直接導いた人物でした。渋沢の後の活躍を考えると、円四郎の人材登用が持っていた歴史的な意味は非常に大きいものがあります。
【元治元年の京都で暗殺】平岡円四郎の最期と暗殺理由の真相
平岡円四郎の生涯を決定的に終わらせたのが、元治元年(1864年)6月16日に京都で起きた暗殺事件です。
慶喜の側近として政治的な影響力を強めていた円四郎は、京都で水戸藩士らに襲撃されました。事件の背景には、幕府の外交方針や尊王攘夷運動をめぐる激しい対立がありました。
暗殺されたのは1864年6月16日平岡円四郎が襲撃されたのは、元治元年6月16日の夜です。新暦では1864年7月19日に当たります。
当時の円四郎は、一橋家の家老並として慶喜を支える立場にありました。家老並とは、一橋家の重臣に相当する役職です。慶喜の信頼を背景に、その影響力は大きくなっていました。
霊明神社が公開する幕末の志士に関する記録によると、円四郎は川村恵十郎らとともに家老・渡辺孝綱の宿を訪れ、その帰路に京都町奉行所の与力長屋付近で襲撃されました。
襲撃したのは水戸藩士の林忠五郎と江幡定彦らです。円四郎と従者は命を落とし、同行していた川村恵十郎は反撃して刺客の一人を斬り倒したものの、自身も重傷を負いました。
事件後、林忠五郎は斬死し、江幡定彦も重傷を負った末に自害したと伝えられています。
平岡円四郎の暗殺理由は慶喜への攘夷実行を妨げたこと暗殺の背景にあったのは、尊王攘夷派の急進的な思想と、慶喜を中心とする政治路線との対立です。
当時の水戸藩では、尊王攘夷をめぐる意見の対立が深刻化していました。特に攘夷の実行を強く求める人々は、幕府や有力者が外国勢力に対して強硬な姿勢を取らないことに不満を抱いていました。
一橋慶喜は、朝廷と幕府の関係を調整しながら政治的な安定を図る立場にありました。外国との外交問題についても、急進的な攘夷運動とは異なる現実的な対応を求められていました。
その慶喜の側近だった円四郎は、尊攘派の急進的な活動家たちから、攘夷の実行を遅らせる原因をつくっている人物とみなされるようになります。
つまり、暗殺者たちは円四郎を、慶喜に穏健な政策を取らせる側近、あるいは主君の政治判断を左右する人物と認識していたのです。
これは円四郎個人への恨みというより、幕末の政治路線をめぐる対立が個人への暴力に転化した事件と理解できます。
暗殺者は水戸藩士だったのか?事件を実行した林忠五郎と江幡定彦は水戸藩士です。ただし、ここで注意したいのは、襲撃した側が水戸藩士だったことと、平岡円四郎自身が水戸藩士だったことは別の問題だという点です。
円四郎は江戸出身の幕臣であり、一橋家の用人でした。水戸藩の徳川斉昭や藤田東湖らとの政治的なつながりはありましたが、本人が水戸藩に所属していたわけではありません。
また、暗殺は水戸藩全体の公式方針によって実行されたと単純化できるものでもありません。水戸藩内部の派閥対立や、京都に集まった尊攘派の急進的な思想を踏まえて理解する必要があります。
暗殺日が6月16日と6月17日で異なる理由平岡円四郎の暗殺日については、資料によって6月16日と6月17日の表記が見られます。
京都での襲撃を記録した資料や霊明神社の記録では元治元年6月16日夜とされる一方、渋沢栄一の回想には6月17日と記されています。
事件の発生した夜と、その後に情報が伝わった日付など、記録の成立事情によって表記に違いが生じた可能性があります。ただし、日付の違いだけをもって別の事件と考える必要はありません。
一般的な歴史上の記述では、元治元年6月16日の暗殺事件として扱われています。
平岡円四郎の死が一橋家に与えた影響円四郎の死は、一橋家にとって大きな損失でした。
慶喜は、政治的な判断を支えてきた有能な側近を失いました。その後、円四郎に代わって慶喜の側近として活動した人物の一人が原市之進です。
原市之進もまた、慶喜を支える重要な人物となりました。しかし、円四郎が担っていた人脈形成や政治的な調整の役割は、簡単に引き継げるものではありませんでした。
渋沢栄一にとっても、円四郎の死は大きな出来事でした。自分の人生を大きく変える機会を与えてくれた恩人を失ったことは、その後の一橋家での活動にも影響したと考えられます。
【青天を衝けの平岡円四郎】堤真一が演じた人物像と史実の違い
平岡円四郎の知名度を高めた作品の一つが、2021年放送のNHK大河ドラマ『青天を衝け』です。
同作では堤真一が平岡円四郎を演じ、渋沢栄一や徳川慶喜と深く関わる重要人物として描かれました。
ドラマで描かれた平岡円四郎の魅力『青天を衝け』における円四郎は、慶喜の能力を高く評価し、その政治的な可能性を信じる人物として登場します。
また、渋沢栄一と渋沢喜作を一橋家に迎え入れることで、2人の人生に大きな転機をもたらします。
堤真一の演技によって表現された豪快さ、先見性、主君への忠誠心は、円四郎の人物像を視聴者に伝えるうえで大きな役割を果たしました。
史実とドラマの共通点・違い円四郎が慶喜の側近だったこと、渋沢栄一を一橋家に推挙したこと、そして元治元年に京都で暗殺されたことは、史料に裏付けられた歴史上の出来事です。
一方、登場人物同士の会話や感情表現、日常生活の細かな描写については、ドラマとしての演出が含まれます。
特に円四郎と渋沢栄一の関係は、実際の渋沢自身の回想によって確認できる部分が多く、作品の重要なエピソードの歴史的な基盤となっています。
『青天を衝け』をきっかけに平岡円四郎を知った読者は、ドラマで描かれた人物像と、渋沢栄一記念財団などが公開する史料を照らし合わせると、より立体的にその生涯を理解できます。
【プロの結論】平岡円四郎の歴史的評価と幕末史に残した功績
平岡円四郎の生涯を振り返ると、彼の最大の功績は、政治的な立場を持つ人物と、将来性のある人材を結びつけたことにあります。
一橋慶喜に対しては、その政治的な能力を見抜き、将軍継嗣問題や京都での政局において側近として支えました。一方、渋沢栄一に対しては、政治活動から実務の世界へ進む機会を与えました。
功績1:徳川慶喜の政治的な台頭を支えた慶喜は後に第15代将軍となる人物ですが、その政治的な基盤は最初から強固だったわけではありません。
将軍継嗣問題での敗北や安政の大獄による処分など、厳しい政治状況を経験しています。円四郎は、こうした状況の中でも慶喜を支え続けた側近でした。
彼の活動は、慶喜が政治の中心へ復帰し、幕末の重要な意思決定に関わるようになるまでの過程を理解するうえで欠かせません。
功績2:渋沢栄一という人材を見いだした円四郎のもう一つの大きな功績は、渋沢栄一を一橋家に迎え入れたことです。
渋沢は一橋家での経験を通じて、軍事、財政、産業振興などの実務に携わりました。後に近代日本の経済発展に貢献する人物となった渋沢にとって、この時期は重要な経験となりました。
円四郎は自らが長期間活躍することはできませんでしたが、人材を登用することで、その後の歴史に影響を残しました。
功績3:政治的な調整役としての能力幕末は、幕府と朝廷、諸藩、尊王攘夷派、開国派など、多くの勢力が対立した時代でした。
その中で円四郎は、慶喜の側近として政治的な情報を集め、必要な人材を登用し、政策を実現するための調整に関わりました。
彼の能力は、単に頭が良いということだけではありません。政治的な利害が対立する中で、相手の意図を理解し、状況に応じて人を動かす実務能力にもあったと考えられます。
平岡円四郎を評価する際に押さえたい3つの視点円四郎の歴史的評価を考える際には、次の3点を押さえると理解しやすくなります。
- 政治面:一橋慶喜を支え、将軍継嗣問題から幕末の政局まで関わった側近だった。
- 人材面:渋沢栄一と渋沢喜作を一橋家に推挙し、その後の人生に影響を与えた。
- 歴史的限界:暗殺によって43歳で生涯を終え、慶喜のその後の政治活動を最後まで支えることはできなかった。
平岡円四郎は、将軍にも大名にもなった人物ではありません。しかし、主君を支える能力と人材を見抜く力によって、幕末の歴史に確かな足跡を残しました。
【平岡円四郎の生涯】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:平岡円四郎の生年月日はいつですか?
A1:文政5年10月7日生まれです。新暦では1822年11月20日に当たります。江戸出身の幕臣で、本姓は岡本です。
Q2:平岡円四郎の享年は何歳ですか?
A2:享年43歳です。これは数え年であり、新暦による実際の満年齢では41歳でした。元治元年6月16日(新暦1864年7月19日)に亡くなっています。
Q3:平岡円四郎はなぜ暗殺されたのですか?
A3:徳川慶喜の側近として政治に影響力を持ち、急進的な尊王攘夷派から、慶喜に攘夷を実行させない原因とみなされたためです。元治元年6月16日、京都で水戸藩士の林忠五郎や江幡定彦らに襲撃されました。
Q4:平岡円四郎は水戸藩士だったのですか?
A4:いいえ。円四郎は江戸出身の幕臣で、旗本・岡本家の四男として生まれ、平岡家の養子となった人物です。暗殺を実行した側が水戸藩士でした。
Q5:平岡円四郎と渋沢栄一はどのような関係でしたか?
A5:円四郎は渋沢栄一と渋沢喜作を一橋家に推挙した人物です。元治元年2月23日に2人の仕官が実現し、渋沢は一橋家で政治・軍事・財政の実務を経験しました。
Q6:大河ドラマ『青天を衝け』では誰が平岡円四郎を演じましたか?
A6:堤真一が演じました。2021年放送のNHK大河ドラマで、徳川慶喜の側近として、また渋沢栄一の人生を変えた重要人物として描かれています。
平岡円四郎は、文政5年(1822年)に江戸で生まれ、旗本の養子を経て幕臣となり、一橋慶喜の側近として活躍した人物です。
将軍継嗣問題では一橋派の活動に関わり、安政の大獄による左遷を経験した後、慶喜の政治的復権とともに一橋家用人として復帰しました。京都での政局においても慶喜を支え、家老並にまで昇進しています。
また、渋沢栄一と渋沢喜作を一橋家に推挙したことは、後の日本経済史にもつながる重要な功績です。渋沢自身の回想からも、円四郎が単なる上司ではなく、人生の転機を与えてくれた恩人だったことがうかがえます。
しかし、元治元年(1864年)6月16日、京都で水戸藩士らに暗殺され、43歳でその生涯を閉じました。慶喜の側近として影響力を強めていたことが、急進的な尊王攘夷派の反発を招いた背景にありました。
平岡円四郎の生涯から読み取れるのは、歴史を動かすのは将軍や大名だけではないということです。政治の表舞台に立たずとも、人材を見いだし、主君を支え、組織を動かす人物が歴史の転換点に大きな影響を与えることがあります。
慶喜を支え、渋沢栄一の将来を開いた平岡円四郎。彼の功績と最期を知ることは、幕末という激動の時代を、権力者だけでなく、その周囲で歴史を動かした人々の視点から理解することにつながります。
主な史料・参考資料
- 公益財団法人渋沢栄一記念財団『実験論語処世談』および『渋沢栄一伝記資料』
- 国立国会図書館「Web NDL Authorities」
- 講談社『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』
- 町田明広氏によるJBpress「渋沢栄一と時代を生きた人々」
- 霊明神社「水戸藩士で最初に葬祭を行った志士」
- 小学館『サライ』「青天を衝け 満喫リポート」