張本勲さんの国籍について、最も重要なのは、長年維持してきた韓国籍を、晩年に日本国籍へ変更していたという事実です。
この事実が広く知られるきっかけになったのが、2024年12月29日付の産経新聞のインタビュー「話の肖像画 元プロ野球選手・張本勲〈28〉」でした。
張本さんは、このインタビューで次のように明かしています。
「数年前に国籍を変えた。今は日本国籍だ」
この発言を毎日経済(MK)が2024年12月31日に報道し、韓国メディアでも大きく取り上げられました。
注目すべきなのは、張本さんが帰化したことだけではありません。現役時代には何度も日本国籍への変更を勧められながら、それを断り続けていた人物だったからです。
帰化したのは何年?正確な時期は公表されている?ここは検索する人が特に気になるポイントです。
2024年12月のインタビューで、張本さんが明らかにしたのは「数年前」という時期まででした。
つまり、次のように整理できます。
- 日本国籍への変更:本人が公表済み
- 帰化した時期:2024年12月時点から数年前
- 具体的な西暦:本人の発言では明らかにされていない
- 国籍変更後の本人の説明:日本国籍
- 韓国系のルーツに対する意識:引き続き持っていた
帰化した年を2020年、2021年などと特定する情報は、本人の公表内容からは導けません。
また、2024年のインタビューでは、国籍を元に戻すこともできるという趣旨の発言をしながら、在日韓国人としての誇りは変わらないと語っています。
したがって、張本さんの国籍変更は、韓国との関係を完全に断ち切るという単純な意味ではありませんでした。
【国籍変更の経緯】なぜ若い頃は韓国籍を守り続けたのか

張本さんが若い頃に日本国籍を取得しなかった背景には、母親の存在がありました。
この経緯は、2023年5月に掲載された朝鮮日報日本語版の本人インタビューでも詳しく紹介されています。
プロ入りの際に持ち上がった日本国籍への変更張本さんは1940年6月19日、広島県に生まれました。
18歳の頃、プロ野球球団の東映フライヤーズからスカウトされます。
しかし、当時の日本プロ野球には外国人選手の出場人数に関する制限があり、球団側は張本さんを日本国籍に変更させる方法を検討しました。
朝鮮日報のインタビューによれば、球団オーナーから養子縁組による日本国籍取得を提案されたといいます。
ところが、その話を聞いた母親は強く反対しました。
母親の考えは、祖国を捨ててまで野球選手になる必要はないというものでした。
張本さん自身も、母親の意思を尊重し、日本国籍への変更を選びませんでした。
最終的には、1945年以前に日本で生まれた選手を例外とする規定が追加され、張本さんは韓国籍のまま東映フライヤーズに入団できたと報じられています。
母親の祖国への思いが人生の選択に影響したこのエピソードで重要なのは、単に日本国籍を取得する機会があったということではありません。
張本さんにとって、母親の祖国に対する思いは、プロ野球選手としての将来を左右するほど大きなものでした。
母親は韓国の民族衣装であるチマチョゴリを大切にしていた人物としても紹介されています。
1980年、張本さんが通算3000安打を達成した際には、母親が韓服を着て球場に訪れたことも、朝鮮日報のインタビューで伝えられました。
日本で生まれ、日本の社会で育ち、日本のプロ野球で成功する。その一方で、家庭の中では韓国の文化や祖国への思いが受け継がれていたのです。
若い頃に帰化を断った背景には、こうした家族の歴史がありました。
【年代別年表】張本勲さんの国籍・野球人生の転換点
張本さんの国籍の変遷を理解するには、野球選手としての歩みと、韓国との関係を合わせて見る必要があります。
以下に主な出来事をまとめました。
この年表から分かるのは、張本さんの人生には大きく3つの転換点があったことです。
1つ目は、母親の意思を尊重して韓国籍のままプロ入りしたこと。
2つ目は、引退後に韓国プロ野球の発展に長年協力したこと。
3つ目は、晩年に日本国籍を取得したことです。
特に、韓国野球の発展に20年以上携わった後に国籍を変更していたという点は、張本さんの人生を考えるうえで見逃せません。
【韓国との関係】KBOの創設と発展に尽力した張本勲さん
張本さんは日本プロ野球の記録保持者であると同時に、韓国野球界とも深い関係を持っていました。
その中心となったのが、韓国野球委員会(KBO)です。
KBO総裁特別補佐として20年以上活動韓国プロ野球は1982年にスタートしました。
張本さんは発足時期から韓国野球界に関わり、1982年から2005年までKBO総裁特別補佐として活動したと、テレビ朝日などが報じています。
本人も2024年の産経新聞インタビューで、現役引退直後に特別補佐を依頼され、韓国プロ野球の創設に協力したと振り返りました。
具体的には、日本球界でプレーしていた在日韓国人選手を探し、韓国に紹介する活動にも取り組んだといいます。
韓国プロ野球がまだ発展途上だった時代に、日本で経験を積んだ選手や関係者をつなぐことは、競技の基盤づくりにとって大きな意味がありました。
日本で実績を残した選手が、韓国野球の発展にも関わったのです。
韓国政府からの評価と、晩年の失望張本さんの韓国への貢献は、公式な表彰にもつながっています。
2007年には、韓国の国家発展に貢献した人物に授与される国民勲章の無窮花章を受章しました。
しかし、本人の晩年の発言からは、韓国野球界や韓国社会に対する複雑な感情も読み取れます。
2024年のインタビューでは、韓国野球界の発展への貢献を理由に表彰の話が持ち上がったものの、断ったと明かしました。
その理由として、20年以上にわたってKBO総裁特別補佐を務めたにもかかわらず、韓国シリーズやオールスター戦に一度も招待されなかったことへの不満を語っています。
ここで注意したいのは、2007年の国民勲章受章と、後年に断った表彰の話は別の出来事だということです。
韓国から一切評価されなかったわけではありません。むしろ、公式な評価を受けた一方で、野球界との日常的な関係には寂しさを感じていたという、複雑な経緯がありました。
【韓国政府への発言】帰化の背景にあった在日韓国人への思い
張本さんが日本国籍を取得した理由を考えるうえで、2024年の発言は非常に重要です。
本人は、韓国のある政権が在日韓国人を軽視するような姿勢を取ったことに失望したと説明しています。
在日韓国人は自分の意思だけで日本に来たわけではない毎日経済が紹介した2024年のインタビューによると、張本さんは、在日韓国人について次のような歴史認識を示しました。
- 日本への渡航には、徴用など歴史的な事情があった。
- 生活の困窮によって日本へ渡った人々もいた。
- 自分たちの意思だけで日本に移住したという見方は実情を捉えていない。
- 日本で懸命に働き、生活を築いてきた人々への理解が必要だった。
本人は、韓国のある政権が在日韓国人を、本人たちの意思で日本へ移り、海外で暮らしている人々のように扱ったことに反発したと伝えられています。
この発言からは、国籍変更の背景に、単なる生活上の都合だけではなく、在日韓国人の歴史をめぐる問題があったことが分かります。
2023年には韓国の対日姿勢についても発言実は、国籍変更を公表する前の2023年にも、張本さんは韓国の対日政策について率直な意見を述べていました。
朝鮮日報の2023年5月のインタビューでは、日本に対して謝罪や金銭的な対応を繰り返し求める韓国の姿勢に疑問を呈し、両国が対等な隣国として協力することを望む考えを示しました。
また、文在寅前政権の対日姿勢について、在日韓国人としてつらかったと語っています。
一方、尹錫悦政権が日韓関係の改善を進めていることについては評価する発言もありました。
こうした発言は、張本さんが韓国を単純に否定していたわけではないことを示しています。
むしろ、韓国を祖国として大切に思うからこそ、政治や社会のあり方について厳しい意見を述べていたのです。
帰化しても在日韓国人としての誇りは変わらなかった2024年のインタビューで、張本さんは国籍を変更した後も、自身のルーツに対する誇りを持っていると説明しました。
ここが、今回の国籍変更を理解するうえで最も大切な部分です。
国籍は法律上の所属を示すものですが、民族的なルーツや家族の歴史、個人のアイデンティティーまで自動的に変えるものではありません。
張本さんの場合、日本国籍を取得したことと、韓国にルーツを持つ自分自身を認め続けることは、矛盾するものではありませんでした。
日本で生まれ、日本の野球界で生き、韓国野球にも貢献した。その人生を一つの国籍だけで説明することは難しいのです。
【2026年最新】張本勲さんの死去と国籍をめぐる最終的な事実
2026年9月10日、日本プロ野球名球会は張本勲さんの訃報を公式サイトで発表しました。
逝去したのは2026年9月9日午後、86歳でした。
日本野球界だけでなく、韓国野球界にも大きな影響を残した人物の訃報は、日韓双方で報じられました。
韓国メディアも張本さんの死去を速報韓国の聯合ニュースや日本のTBS NEWS DIGなどは、張本さんが在日韓国人2世として生まれたことや、韓国プロ野球の発展に尽力したことを伝えました。
韓国メディアでは、張本さんの韓国語名である張勲(チャン・フン)として紹介する報道も見られました。
また、テレビ朝日の報道によれば、KBOは張本さんの死去を受けて弔問を検討していました。
2007年には韓国の国民勲章を受章し、韓国野球界にも長年貢献していたことから、その功績は韓国でも改めて注目されました。
張本さんの国籍について2026年時点で分かっていること2026年11月現在、国籍に関する情報を整理すると次のようになります。
- 生まれ育った背景:広島生まれの在日韓国人2世
- 若い頃の国籍:韓国籍
- 現役時代:日本国籍への変更を断り、韓国籍を維持
- 晩年:本人が日本国籍への変更を公表
- 帰化した正確な年:公表された本人の発言では特定できない
- 2026年9月:86歳で逝去
つまり、張本さんは韓国籍を長年維持した後、晩年に日本国籍を取得していた人物です。
2024年の本人発言が、国籍変更を確認するうえで重要な一次情報となっています。
【プロの結論】張本勲さんの帰化は祖国を捨てたという意味ではない
張本さんの国籍変更をめぐる話には、3つの視点があります。
第一に、若い頃の韓国籍維持には母親の存在が大きく影響していたこと。
プロ野球選手になるために日本国籍を取得する道もありましたが、母親の祖国への思いを尊重し、韓国籍のまま入団することを選びました。
第二に、晩年の帰化には韓国社会や韓国政権への失望が関係していたこと。
本人は在日韓国人への理解が不足していると感じたことを、国籍変更の背景として説明しています。また、長年尽力した韓国野球界との関係にも不満を抱いていました。
第三に、日本国籍になっても韓国系のルーツに対する誇りは失われなかったこと。
張本さんは日本のプロ野球で歴史的な記録を残しながら、韓国野球の発展にも協力しました。国籍変更によって、その過去や貢献が消えるわけではありません。
張本さんの人生から読み取れるのは、国籍と民族的なアイデンティティーは必ずしも同じではないということです。
在日韓国人2世として生まれ、日本で生きてきた張本さんにとって、どちらか一方だけを選ぶことが人生のすべてではなかったのでしょう。
3085安打という偉大な記録とともに、日韓の野球界をつないだ人物として、その歩みは記憶されるべきものです。
【よくある質問】張本勲さんの国籍に関するFAQ
Q1:張本勲さんの国籍は韓国籍ですか、日本国籍ですか?
2024年12月の本人インタビューで、数年前に日本国籍を取得したと明かしています。生前晩年の公表された国籍は日本国籍です。
Q2:張本勲さんが帰化したのは何年ですか?
正確な年は公表されていません。本人は2024年12月のインタビューで「数年前」と説明しています。
Q3:張本勲さんが若い頃に日本国籍を取得しなかった理由は?
プロ入り時に日本国籍への変更を提案されましたが、母親が祖国を捨てる必要はないとして反対したためです。
Q4:張本勲さんの本名は張勲(チャン・フン)ですか?
韓国語圏では張勲(장훈・チャン・フン)という名前で紹介されています。日本では張本勲として野球選手・評論家活動を続けました。
Q5:張本勲さんは在日韓国人2世だったのですか?
はい。1940年に広島県で生まれ、韓国出身の両親を持つ在日韓国人2世でした。
Q6:張本勲さんは韓国野球界に貢献したのですか?
はい。1982年から2005年までKBO総裁特別補佐として活動し、韓国プロ野球の発展や日韓の野球交流に貢献しました。
Q7:張本勲さんは2026年に亡くなったのですか?
はい。2026年9月9日に86歳で逝去しました。日本プロ野球名球会が翌10日に公式発表しています。
張本勲さんは、長年にわたって韓国籍を維持し、日本プロ野球で3085安打という前人未到の記録を打ち立てた人物です。
若い頃には母親の思いを尊重して帰化を断り、引退後は韓国プロ野球の発展にも力を注ぎました。
その後、晩年に日本国籍を取得。2024年12月29日の産経新聞インタビューで、その事実と背景を初めて明かしました。
帰化の具体的な年は公表されていませんが、在日韓国人への理解をめぐる韓国政権への失望が、本人の説明した大きな背景でした。
そして2026年9月9日、86歳で逝去。
張本さんの人生は、日本と韓国という二つの社会の間で生きた一人の野球人の歴史でもあります。
日本国籍を取得したからといって、韓国にルーツを持つ自分を否定したわけではない。
この点こそ、張本勲さんの国籍をめぐる話を理解するうえで、忘れてはならない部分です。