1780年、現在の香川県東かがわ市にあたる讃岐国馬宿村に、一人の類まれな科学技術者が生まれた。その人物が、江戸時代後期の発明家・暦学者・測量家として名を残した久米通賢(くめ・つうけん)である。通称は栄左衛門。天文学や測量術を学び、精密な測量機器の製作、讃岐の実測地図の作成、坂出塩田の開発など、幅広い分野で功績を残した。
伊能忠敬と同時代を生き、伊能隊が四国を測量する以前から高松藩領内の測量に取り組んでいた久米通賢。地元香川県では「讃岐のエジソン」「塩田の父」と称される。1841年6月25日(天保12年5月7日)に故郷で没したが、その業績を伝える1,061点の関係資料は国の重要文化財に指定されている。2026年現在も、江戸時代の科学技術と地域開発を考えるうえで欠かせない人物だ。
【久米通賢とは?】読み方・生年月日・通称栄左衛門の生涯

久米通賢は、江戸時代後期に讃岐国、現在の香川県を中心に活躍した科学技術者である。
単に発明品を作るだけではなく、天文学で得た知識を測量に応用し、測量で得た地理情報を土木工事や塩田開発に生かすなど、学問と実社会を結びつけた点に大きな特徴がある。
久米通賢の読み方は「つうけん」?「みちかた」?久米通賢の読み方には、少し興味深い事情がある。
一般的には「くめ・つうけん」と読まれている。一方、辞典類や地域の歴史資料には「くめ・みちかた」という読み方も掲載されている。
四国電力の広報誌によると、歴史的には「みちかた」と読んでいたと推測されるものの、現在では音読みの「つうけん」が広く一般化している。
人物名を調べる際には、両方の読み方が存在することを知っておくとよい。
通称は栄左衛門、実名は通賢「久米栄左衛門」と「久米通賢」は別人ではない。
江戸時代の人名には、通称と実名を使い分ける慣習があった。久米の場合は、栄左衛門が通称、通賢が実名にあたる。
そのため、史料や地域の顕彰資料では「久米栄左衛門通賢」と表記されることもある。
生年月日・没年月日と出身地| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 人物名 | 久米栄左衛門通賢 |
| 一般的な読み方 | くめ・つうけん |
| 別の読み方 | くめ・みちかた |
| 生年 | 1780年(安永9年) |
| 出身地 | 讃岐国大内郡馬宿村 |
| 現在の出身地 | 香川県東かがわ市馬宿 |
| 通称 | 栄左衛門 |
| 没年月日 | 1841年6月25日 |
| 旧暦の没年月日 | 天保12年5月7日 |
| 主な肩書 | 発明家・暦学者・測量家・洋学者 |
| 主な功績 | 讃岐の測量、地図製作、坂出塩田開発 |
久米通賢の才能を語るうえで欠かせない人物が、天文学者の間重富(はざま・しげとみ)である。
1798年、通賢は大坂に上り、間重富のもとで天文暦学や測量術を学んだ。
間重富は西洋天文学の知識も取り入れていた人物であり、その学問環境は通賢の科学技術者としての成長に大きな影響を与えたと考えられている。
1802年には父・喜兵衛の死去を受けて讃岐に帰郷し、家を継いだ。その後、高松藩に召し出され、藩の仕事に携わるようになる。
ここから、通賢の活動は学問の研究だけでなく、藩の財政、測量、土木、産業振興へと広がっていく。
【久米通賢の年表】伊能忠敬との接点から坂出塩田開発まで
久米通賢の生涯は、大きく分けると、天文学を学んだ修業時代、測量と発明に取り組んだ時代、そして坂出の地域開発を主導した時代に整理できる。
特に注目したいのは、1806年の測量開始と1826年の塩田開発である。この二つの出来事が、通賢の科学者としての能力と実務家としての能力を象徴している。
久米通賢の主要な経歴・年表| 年代 | 関係人物・場所 | 出来事と主な功績 |
|---|---|---|
| 1780年 | 馬宿村 | 讃岐国大内郡馬宿村に誕生 |
| 1798年 | 間重富・大坂 | 大坂で天文学や測量術を学ぶ |
| 1802年 | 父・喜兵衛、高松藩 | 帰郷して家督を継ぎ、藩に召し出される |
| 1806年 | 高松藩 | 地平儀を製作し、藩領内の測量を開始 |
| 1807年 | 讃岐 | 測量と天体観測を続け、著作もまとめる |
| 1808年 | 伊能忠敬 | 伊能測量隊の接待・応接役を務める |
| 1812年 | 天体観測 | 渾天儀、天球儀、地球儀などを製作 |
| 1816年 | 大坂 | 揚水機を利用した人工滝の見世物興行を実施 |
| 1817年 | 発明活動 | 揚水装置「自然水」を製作 |
| 1824年 | 松平頼恕 | 坂出の塩田開発を進言 |
| 1826年 | 坂出 | 塩田開発の普請奉行となる |
| 1827年 | 別子銅山 | 坑道の水抜き工事に関連する測量を実施 |
| 1829年 | 坂出 | 塩田開発の主要工事が進み、墾田の功績を顕彰 |
| 1833年 | 坂出 | 西新開・中(東)新開・江尻新開が完成 |
| 1836年 | 馬宿村 | 藩の役目を退き、故郷に戻る |
| 1841年 | 馬宿村 | 病没 |
年表から分かるのは、通賢の活動が特定の専門分野に限定されていなかったことだ。
天文学を学んだ後、測量機器を製作し、地図を作り、さらに土木工事や産業振興にまで携わっている。
1827年には愛媛県の別子銅山に関係する水抜き工事の測量にも取り組んだ。1836年に藩の役目を退いた後も研究や著述を続けていた。
学問を学ぶこと自体を目的とするのではなく、地域の課題を解決するために知識を使う。これが通賢の生涯を貫く特徴だった。
【伊能忠敬との比較】久米通賢の実測地図は本当に日本初なのか?
久米通賢を調べる読者が特に気になるのが、伊能忠敬との関係である。
両者は同じ江戸時代後期に活動し、実際に讃岐で接点を持っていた。加えて、通賢が作成した地図の下図は、伊能図に先行する測量図として地図史上の価値が認められている。
ただし、ここには一つ大切な区別がある。
久米通賢が伊能忠敬より先に日本全国の実測地図を完成させた、という意味ではない。
1806年に始まった讃岐の測量久米通賢は1806年(文化3年)、高松藩の命令を受けて領内の沿岸や街道の測量を開始した。
その際に活用したのが、自ら製作した測量機器「地平儀」である。
測量では、羅針盤によって方位を記録し、間縄によって距離を測る導線法を採用。加えて、測量地点同士の位置関係から誤差を確認する交会法も併用した。
導線法だけでは、測定の小さな誤差が積み重なる可能性がある。交会法を組み合わせることで、測量結果の精度を高めようとしたのである。
バーニヤ副尺を取り入れた測量技術通賢の測量技術を特徴づけるのが、バーニヤ副尺の採用だ。
バーニヤとは、主目盛りの間をさらに細かく読み取るための補助目盛りである。
通賢が製作した地平儀や八分儀には、この仕組みが取り入れられていた。
文化庁の文化遺産オンラインに掲載された久米通賢関係資料の解説によると、これらの器具は2分単位の読み取りを可能にしていた。
天体観測で培った精密な角度の計算能力を、実際の土地の測量に応用した結果といえる。
伊能忠敬との違いを比較| 比較項目 | 久米通賢 | 伊能忠敬 |
|---|---|---|
| 主な活動時期 | 1800年代前半 | 1800~1816年の全国測量 |
| 主な測量対象 | 高松藩領・讃岐地方 | 日本全国の沿岸・街道 |
| 測量開始 | 1806年に藩命で開始 | 1800年に蝦夷地測量を開始 |
| 代表的な成果 | 高松藩領の実測図・下図 | 大日本沿海輿地全図 |
| 測量の特徴 | 地平儀、バーニヤ副尺、導線法、交会法 | 方位と距離を記録する実測技術 |
| 讃岐での関係 | 1808年に測量隊の接待・応接を担当 | 1808年に四国沿岸を測量 |
| 主な歴史的意義 | 讃岐地方の精密な実測図を作成 | 日本初の実測による全国測量を実施 |
国土地理院によると、伊能忠敬は1800年から1816年まで全国測量を行い、没後の1821年に「大日本沿海輿地全図」が完成した。
一方、久米通賢は1806年に高松藩領の測量を開始しており、伊能忠敬が四国を測量する1808年よりも前に、讃岐の地域測量を進めていた。
つまり、両者の功績は競争関係というより、異なる規模と目的を持った同時代の測量事業として理解するのが正確だ。
「日本初の実測地図」という表現の注意点久米通賢の地図は、伊能図に先行する讃岐地方の実測図として高い価値を持つ。
しかし、伊能忠敬が日本全国の実測測量を実施した事実とは区別しなければならない。
久米通賢の功績は、全国地図の完成ではなく、伊能忠敬の四国測量に先行して、高松藩領という地域を対象に精密な実測と地図製作を行ったことにある。
この違いを理解すると、通賢の歴史的な位置づけがより明確になる。
なお、通賢が作成した高松藩全図の下図は長く所在が分からなかったが、2002年に鎌田醤油の旧店舗の倉庫で発見された。現存する資料は、地図が完成するまでの測量過程を知るうえでも重要である。
【讃岐のエジソン】久米通賢が残した発明と洋学・暦学の功績
久米通賢が「讃岐のエジソン」と呼ばれる理由は、一つの大発明だけで歴史に名を残した人物ではないからだ。
天文学、測量、機械製作、農業、製糖、製塩、土木など、異なる分野に知識を応用した。その幅広い活動が、後世にこの呼び名を生んだ背景にある。
暦学と天文学が発明の出発点通賢の学問的な出発点は、間重富から学んだ天文暦学だった。
江戸時代の暦学は、単に星を観察する学問ではない。天体の位置を計算し、日食や月食などの現象を予測し、暦の作成につなげる実用的な学問でもあった。
通賢は帰郷後も天体観測を続け、日食、月食、彗星などの観測記録を残している。
また、星眼鏡と呼ばれる天体望遠鏡や天球儀なども製作した。
四国電力の広報誌で紹介された香川大学の松村雅文教授の研究によると、特に1811年の彗星観測記録は明瞭に残されており、その精度は当時の江戸や大坂の天文学者と比較しても遜色がないと評価されている。
地方に暮らしながら、当時の先端的な科学知識を活用していたことが分かる。
多彩な発明品と技術開発通賢の発明は測量機器だけにとどまらなかった。
| 分野 | 主な製作・研究 | 特徴 |
|---|---|---|
| 天文学 | 星眼鏡・天球儀・渾天儀 | 天体観測と計算に活用 |
| 測量 | 地平儀・八分儀・象限儀 | 精密な角度測定を目指した |
| 揚水技術 | 自然水など | 水を汲み上げる仕組みを開発 |
| 機械製作 | 時計など | 幅広い機械技術に取り組む |
| 農業・産業 | 製糖技術の改良 | 地域産業の生産性向上を目指す |
| 軍事技術 | 銃砲の改良・製造 | 高松藩の海防や軍備に関係 |
| 土木技術 | 塩田・鉱山・港湾関連の設計 | 測量と工学知識を実際の工事に応用 |
特に興味深いのが、1816年に大坂で行った人工滝の見世物興行である。
通賢は揚水装置を利用して人工的に水を流す仕組みを考案し、「養老の瀧」として人々に披露した。
これは、機械を作る能力を実用技術だけでなく、人々を楽しませる娯楽にも応用していたことを示す事例だ。
洋学を取り入れた実践的な科学者江戸時代後期は、オランダを通じて西洋の科学知識が日本に流入していた時期でもある。
通賢は、そうした西洋の天文学を取り入れていた間重富のもとで学んだ。
その学習経験は、観測器具の製作や測量技術の改良に結びついた。
久米通賢関係資料には、天文学の書物や観測記録、測量機器などが残されている。文化庁も、これらを19世紀前半における科学知識の受容と活用を示す貴重な資料群として評価している。
「讃岐のエジソン」という呼称は、現代の発明家との単純な優劣比較ではない。多分野にわたる技術開発を行い、その成果を地域社会の課題解決に結びつけた人物という意味で理解したい。
【塩田の父】坂出塩田開発を成功させた久米通賢の実力
久米通賢の業績のなかで、地域社会への影響が特に大きかったのが坂出塩田の開発である。
現在の香川県坂出市が「坂出塩田の父」として通賢を顕彰しているのも、この事業が坂出の発展に大きく関係しているためだ。
高松藩の財政難を救うための塩田開発1820年代、高松藩は財政上の問題を抱えていた。
通賢は、藩の財政を立て直すための施策として、坂出沖の遠浅の海を活用した塩田開発を提案した。
塩は当時、生活に欠かせない物資であり、安定した生産体制を整えれば藩の収入源にもなる。
通賢は測量によって讃岐の地形を把握していたため、坂出の沿岸が塩田開発に適していることにも着目できたと考えられる。
1824年に藩主・松平頼恕へ開発を進言し、1826年(文政9年)には坂出墾田の普請奉行となった。
約132ヘクタールを開拓した大規模事業坂出市の公式紹介によると、塩田開発には藩から約2万両の工費が投じられ、通賢自身も私財を投入した。
工事には延べ約194万人が動員され、東大浜・西大浜を含む約132ヘクタールの開拓が行われた。
事業の主要な工事は1829年に大きな節目を迎え、その後も西新開・中(東)新開・江尻新開などの整備が進み、博物館の略年表では1833年にこれらの塩田が完成したと記録されている。
入浜式塩田の仕組みと久米式の工夫通賢が開発に取り組んだのは、入浜式塩田である。
これは、潮の満ち引きを利用して海水を塩田に取り込み、日光や風によって水分を蒸発させ、濃い塩水を作る方式だ。
その後、濃縮した海水を煮詰めることで塩を生産する。
通賢の設計で注目されるのは、単に土地を開拓しただけではなく、塩田を効率よく運営する仕組みまで考えていたことだ。
例えば、史料に残る設計図には、海水を取り込む取水口と雨水を排出する排水口に関する工夫が見られる。
雨が降った後に水を速やかに排出できれば、製塩作業を再開しやすくなる。こうした工夫は塩田の稼働日数や生産性の向上につながる。
さらに通賢は、塩の生産量や年貢収入の見込み、建設費用、他産地の価格なども調査していた。
つまり、彼は測量家であり、土木技術者であり、同時に事業全体を管理する経営的な視点も持っていたのである。
「塩田の父」と呼ばれる理由坂出市の発展を語るうえで、塩田開発は重要な歴史的転換点となった。
通賢の功績は、海を陸地に変えたことだけではない。
測量、設計、築堤、排水設備、製塩施設の計画、収益の見積もりまでを一体的に進めた点にある。
1829年には、藩主・松平頼恕によって「坂出墾田之碑」が建立された。
現在も坂出市内には通賢の銅像や開発を伝える史跡が残されており、地域の発展を支えた人物として顕彰されている。
【久米通賢関係資料】国の重要文化財に指定された1,061点の史料
久米通賢の歴史的な評価を支えているのが、現存する膨大な関係資料である。
人物の功績を後世に伝える場合、伝説や顕彰だけではなく、当時の記録や実物が残っているかどうかが重要になる。
その点で通賢は、研究の対象として非常に恵まれた人物でもある。
2014年に国の重要文化財に指定久米通賢に関する資料1,061点は、公益財団法人鎌田共済会が所蔵している。
2014年には、これらの資料が国の重要文化財に指定された。
資料の内容は多岐にわたる。
- 測量の記録や野帳
- 高松藩領の測量絵図・地図の下図
- 地平儀や八分儀などの測量機器
- 日食・月食・彗星の観測記録
- 天球儀などの天文学関係資料
- 坂出塩田の設計図や工事記録
- 土木事業の費用計算書
- 発明品や機械製作に関する記録
特に重要なのは、完成した成果物だけではなく、実際にどのような工程で作業を進めたのかを示す資料が残っていることだ。
測量の現場で書かれた野帳、地形のスケッチ、計測値を整理した記録などから、通賢の仕事を具体的に追うことができる。
2002年に発見された高松藩の地図の下図地図史の観点で注目されるのが、2002年に発見された「御内御用測量下図」である。
長く所在が分からなかった高松藩全図の下図が、鎌田醤油の旧店舗の倉庫で見つかった。
この下図は東西2枚に分かれた大規模なもので、完成図に近い段階の資料とされている。
文化庁の解説でも、伊能図に先行する讃岐地方の測量図として地図史上の価値が指摘されている。
2026年現在も保存・研究が続く関係資料を所蔵する鎌田共済会郷土博物館では、重要文化財の保存修理事業も実施されてきた。
2015年度から2020年度にかけて、経年劣化した文書や地図などの修理が行われている。
久米通賢の研究は、単なる郷土史の範囲にとどまらない。
江戸時代に西洋の科学知識がどのように受け入れられ、地方の技術者によって実際の社会に応用されたのかを知るための、科学技術史上の重要な研究対象となっている。
【久米通賢に関するよくある質問(FAQ)】
Q1:久米通賢の読み方は「くめつうけん」ですか?
A1:現在一般的なのは「くめ・つうけん」です。ただし、歴史的には「くめ・みちかた」と読んでいたと推測されており、辞典にもこの読み方が掲載されています。
Q2:久米通賢は伊能忠敬より先に日本地図を作ったのですか?
A2:正確には、日本全国の地図ではなく、讃岐地方を対象とした実測図を作成しました。1806年に高松藩領の測量を始めており、伊能忠敬の四国測量に先行する業績です。日本全国の実測測量については伊能忠敬が1800年から実施しています。
Q3:久米通賢が「讃岐のエジソン」と呼ばれるのはなぜですか?
A3:天文学、測量、機械製作、揚水装置、製糖技術、軍事技術など、多分野で発明や技術開発に取り組んだからです。特定の発明だけではなく、幅広い科学技術の実践が評価されています。
Q4:久米通賢が「塩田の父」と呼ばれる理由は何ですか?
A4:1826年から坂出塩田の開発を指揮し、約132ヘクタールの土地の開拓に貢献したためです。測量から設計、工事監督、経営計画まで幅広く担当しました。
Q5:久米通賢の生年月日と没年月日は?
A5:1780年(安永9年)生まれで、1841年6月25日(天保12年5月7日)に没しました。一般に紹介されている公的な略歴では生年が示されていますが、誕生日の月日までを確定できる情報は広く確認されていません。
Q6:久米通賢の資料は現在どこにありますか?
A6:主な関係資料は香川県坂出市の公益財団法人鎌田共済会郷土博物館が所蔵しています。1,061点が国の重要文化財に指定されており、測量や地図製作、天文学、塩田開発などの史料が伝えられています。
久米通賢は、1780年に讃岐国馬宿村に生まれ、1841年に故郷で生涯を終えた江戸時代後期の科学技術者である。
通称は栄左衛門。間重富から天文暦学や測量術を学び、地平儀などの測量機器を製作し、伊能忠敬の四国測量に先行する讃岐の実測図を残した。
また、天体観測や機械製作、揚水装置の開発、製糖技術の改良など、多彩な分野で活動した。
そして何より、坂出塩田の開発を主導した功績は大きい。約132ヘクタールの開拓は、坂出が塩の町として発展する基礎の一つとなった。
【プロの結論】久米通賢を理解する最大の要点は、科学者・発明家・地域開発者という三つの顔を切り離さないことだ。
測量技術は地図製作に使われ、地図製作で得た地形の知識は塩田開発に生かされた。天文学で培った計算力や観測技術も、精密な機器の製作につながった。
彼の仕事には、学問、技術、経済、地域社会が一つにつながっている。
久米通賢について調べる際には、次の3点を意識すると、歴史的な評価をより正確に理解できる。
1. 地図の規模を区別する: 全国地図を完成させた伊能忠敬と、讃岐地方の精密な実測図を作った久米通賢の功績を混同しない。
2. 発明の背景を理解する: 機械や観測器具の製作だけでなく、それらを地域の課題解決にどう活用したかを見る。
3. 一次史料に注目する: 国の重要文化財に指定された1,061点の関係資料から、実際の測量や開発の過程を読み解く。
「讃岐のエジソン」「塩田の父」という呼び名の背景には、科学技術を人々の暮らしに役立てようとした一人の実践者の姿がある。
久米通賢の功績は、香川県の地域史にとどまらず、日本の測量史、科学技術史、土木史を考えるうえでも、今なお重要な意味を持っている。
主な史料・参照資料: 文化庁「文化遺産オンライン」、鎌田共済会郷土博物館、坂出市、東かがわ市、国土地理院、四国電力広報誌、コトバンク。